猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

旧関根養魚場の鯉池が見られなくなって、前橋の路地第37回は「分水のある松竹院裏の路地」…

2018-04-17 05:48:43 | あんじゃあない毎日

もう見ることができなくなりました。
文京町に残されていた旧関根養魚場の使われないまま残されていた鯉池に茂るガマです。たくさんの華穂が出ています。去年の夏に撮影した写真です。

 

  昨日の朝食後、電球が必要になったんで欅ウォークまで出かけたんです。中川小学校の前を通りかかると、大きなタブノキに新芽が出ているのが遠目にも分かりました。
このタブノキはさ、73年前の夏、米軍の前橋空襲で校舎が全焼したときにも焼けずに生き延びていた樹なんです。でも、燃えた公社側の南の幹は黒こげになって炭化してしまって、今でも幹の割れ目のようになっている部分の中を覗くと炭化した部分が見えるんです。
炭化した部分の周りの幹がが成長して、傷跡を守るように包み込んできているんです。

  タブの新芽です。芽吹きです。
左は新芽の苞が開いたところです。右は日当たりの良い枝先で、もう新しい葉と華穂が伸び始めているところです。タブも間もなく花の季節を迎えます。

 

それから、両毛線の高架の下をくぐって南へ向かっていたら、もう廃業してしまった旧関根養魚場の建物が解体撤去されてなくなっていました。さらには、使われずに残されていた鯉池も埋め立て工事をしていました。

  まだ埋め立てられていない池のあとには、ガマの新芽が出てきています。池の端にはモミジバキイチゴの白い花が咲いています。
でもさ、このガマも穂を付けることはもうないんですね。モミジバキイチゴも実を結ぶことはなさそうです。

 

   去年の夏にとった池の写真なんです。
ガマの穂が並び立っています。コウホネやアサザの花も咲いていました。

  トンボたちの姿も見ることができました。
全部見られなくなるんです。もう…

 

 鯉池の脇の水路です。この水路はまちの中を流れてきた馬場川の末流です。関根の鯉池で利用された後、前橋高校の天川原校舎へ向かう通称「斜め道路」の脇を流れて、天川原の水田を潤していたんです。
帰りには、この水の流れてくる路地へ寄ってみることにしました。

 

   
        前橋の路地 第37回 分水のある松竹院裏の路地

 

 関根養魚場のところから北へ、両毛線の高架をくぐるとその先に寺院が見える。松竹院だ。正式な名前は「高浜山松竹院梅林寺」というらしいのだが、地元の人間でも、松竹院としか知らない。

 その松竹院の見える角から両毛線の高架沿いの道を東に向かうとマンションにぶつかる。そこを左に曲がって、松竹院の裏に出る路地がある。

路地を行くと三差路があって、その向こうにあ青い水門が見える。その脇には古い石造物が集められている。路地の左側は松竹院の裏塀だ。緩やかにカーブしながら路地は国道50号の「本町三丁目」交差点のところへ出る。昔、「英数学館」があったところだ。

 集められた石造物の中で一番大きなのは庚申塔、その脇には「中河町」と彫られている。中川でなく、中河とある。

 水門の先の水路は馬場川である。本町通りの坂下を流れていた馬場川は、ここでは本町通りと同じレベルになっている。水は低いところから高いところに流れることはない。本町通り(国道50号)が東に進むにつれ下ってきているのだ。千代田町のゑびす坂あたりでは5mを超える高低差があるのだから、通りは東に向かってそれ以上下ってきていることになる。

  本町通りの方から馬場川を見ると、流路が二つに分けられている。分水の仕掛けだ。その先に青い水門があって、そこでは左側の狭い水路の方が水位が低い。流量調整は、右側の水路から左の水路に水を流し込むやり方だ。こういうつくりだと、右が本川で左が分流ということになる。
この分水の右側の流路が、旧関根養魚場の池につながっている。
左は、この分水の先ですぐに左(東)へ向きを変え、流れ下りながら、元川や村島の養魚場のあった両毛線の線路沿いを流れ、その先で端気川に合流している。この分水は、今はない元川と村島の鯉池に水を分けるための分水だったのだ。

 2月21日にこの地図を掲載した。昭和9年の前橋駅の南側の地図だ。
そうしたら、FBの方に「駅南、ずいぶん沼(鯉池)がありましたね」というようなコメントとともに、Nさんから「駅の東側は窪地で線路を敷くために穴を掘って築堤にし、空いた穴が鯉池になったと聞いたことがあります」とのコメントがあった。Nさんがいう鯉池は、この分水の先におある鯉池のことだ。

 

 石造物が集められている分水脇の角を東へ進む路地がある。路地は東に向かって下っている。道の右側のフェンスの中が分水した水の流路である。青いフェンスの先まで行くと、流路の方が1mほど高くなっている。路地は緩やかに下っている。

 緩やかな下り坂を下りきって振り返るとこんな感じだ。分水のところからは2m以上下っている。この道は、天川の戦災住宅で物心ついたころの私が、まちへ通う道筋であった。

 下りきったところに、両毛線の高架をくぐる狭い道がある。小型車がやっと通れる道幅だ。高架の向こうへは1mほどの上りになっている。くぐって行く。

両毛線の高架をくぐり抜けて東の方みるとこんな具合に道が二つに分かれている。高架下の側道と、コンクリート蓋が敷き並べられている道だ。右のコンクリート蓋の下を、さっきの分水で分かれた分流が流れている。
昔、鉄道が高架になる前は線路沿いの道はなかった。道があったのは右手の水路沿いであった。
そして、鉄道沿いには鯉池が並んでいた。Nさんのコメントに出てくる鯉池である。

  村島と元川という2軒の養魚業者が経営する鯉池であった。両毛線に乗って桐生や伊勢崎から戻ってくるとき、車窓からこの鯉池が見えると降りる支度を始めたものである。
二枚目の写真の右側を流れているのが馬場川の末流である。
鯉池のあとは、今はアパートや住宅になっている。

 鯉池の跡地の向こうには両毛線の高架が見える。
大きく変わった。前橋のまち中には、関根の養魚場の鯉池の跡が埋め立てられたことで、鯉池の姿をとどめているところはゼロになった。みんな見られなくなった。
残っているのは、松竹院裏の分水だけである。

  
            前橋の路地 おしまい

 

去年の夏の旧関根養魚場の使われなくなった鯉池に茂っていたガマです。
今年はもう見ることができないんです。

 この写真を撮った日のキキです。ずいぶんと老いて、病気のせいもあって、毛玉取りをしてあげるのに忙しくなっていました。でもさ、キキは毛玉取りが大嫌いだったんです。ずいぶん引っ掻かれました。
ガマの穂も見られなくなって、毛玉取りする夏も来ません。
今年は今年です。あんじゃあないんです。

 

 夕食はね、筍ご飯を炊きました。お椀はね、筍と出汁巻き玉子、それと熱海の土産にもらった海苔でした。おいしかったです。

 

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
8日に催しました美登利会にお運びいただきました皆さま、開催に当たりましてご支援いただきました皆さま、ほんとうにありがとうございました。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の吉啓、二代目吉駒と続けてまいりましたこの会をなんとか途絶えさせることなく続けさせていただくことができましたのも、皆さまのお力添えのおかげでございます。心から御礼申し上げます。
これからも、二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、よろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。ありがとうございました。

 

4月8日の第75回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください

 

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2 コメント

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私も気づいてました。 (ちかにゃん)
2018-04-17 08:12:17
この前 義実家行くとき壊してました。

関口でしたね。 通称「金魚や」 と夫は言います。

義実家はそこより両毛線寄りの 旧高田町 文京町1丁目 かろうじて高台の端っこです。いまは更地ですが。

あのあたり もう少し道が広いといいのですが 義実家のとこ3,5メートルはばで 新築の時セットバックで4メートルに広げるそうです。
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養魚場 (ヒゲクマ)
2018-04-19 09:34:37
ちかにゃんさん
昔は鯉の養殖をしていたのですが、その後金魚の養殖に転じ、らんちゅうという金魚では名の通った養魚場だったと聞いています。
私が生まれたのも高田町です。空襲を避けるため、生まれて間もなく上泉に疎開したんだそうです。
高田町から天川原にかけては田園地帯でしたから、集落道や田んぼ道をそのままに住宅地化したんで道も狭いですよね…
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