都市と楽しみ

都市計画と経済学を京都で考えています。論文や講演も。楽しみは食べ歩き、テニス、庭園、絵画作成・鑑賞、オーディオと自転車

都市計画学会関西支部 第2回フィールドワーク 「花街・先斗町の変遷」に参加

2018-10-26 02:21:03 | 都市計画

 先斗町まちづくり協議会 神戸副会長の対談と街案内で無料、有意義だった( http://www.cpij-kansai.jp/contents/committee/get_file.cgi?id=214&fn=1 )

まず、鴨川の変遷( http://www.pref.kyoto.jp/kyotodoboku/documents/kamoseibi-1.pdf )は理解の前提となる良い資料だ。関連して下記の資料を読んでおくと良い。

鴨川( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%B7%9D_(%E6%B7%80%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E7%B3%BB) )

高瀬川( https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi22.html )

先斗町( https://www.ponto-chou.com/history/ )

禊川(みそそぎがわ https://kyotofukoh.jp/report148.html  )

 講演の内容は:

先斗町の形成 鴨川と高瀬川の間の三角地帯が発祥とのこと

先斗町の発達は、高瀬川の船運と鴨川の治水にともなう河岸と堤防工事で東側に拡大したと思われる。その証拠として、先斗町西側の道路境界石は蛇行しているが、東側は新提改修のためか直線になっている。

①高瀬川(1614)→人足相手の料理屋(生簀料理と鴨や鶉の鶏料理→今でも口取りに入っている)

②寛文新提(1663)→鴨川側水茶屋(1712)3間位。京都坊目誌( http://www.pref.kyoto.jp/dezi/data/62.html )には「東側が栄える」との記述がある。

③昭和10年鴨川洪水(1935)後改修→鴨川岸の3間の通路と後に市から払い下げ東側の拡張、禊川の開削と床の設置

 色街としての公許は安政6年(1859年 明治の前)で 芸妓(畳)のみ娼妓(布団)はなし、但し不見転もいたようだ。この頃、上下木屋町は席貸や茶屋、旅館などは不明とのこと。二条新地( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%96%B0%E5%9C%B0 )の出稼ぎ地として公許ともある。当時、他の五花街(島原含む)は娼妓が居たということだ。

 この頃は娼妓の格が上であったため、先斗町には劣等感があったとのこと。三業地として、置屋は旧歌舞練場(木造で今の京極かねよの建物(3階は焼失)か)で真ん中あたりのハコヤだったとのこと。仕出しは木屋町から露地を通り配達した。

 お茶屋は100軒あったのが現在では20軒、看板規制と電柱の地下埋設は進行中。なお、建替えか焼失なら3項道路となり建物後退( https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E9%A0%85%E9%81%93%E8%B7%AF )で引っ込んでしまうのが問題。

その他貴重な知見は:

・お茶屋は昔のキャバクラ

・先斗町は京ことばだが、祇園は花街ことばで江戸

・祇園色街の発展として建仁寺の上地をとりしきったのが一力の杉浦治郎衛門( http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2010/my01.pdf )

・相続で街が変わる、独居老人の女将が多い、女の世界

・東西の路地は高瀬川の舟入と結びついている

・下水の整備は早かった→露地自体と奥の便所や通り庭、竃が東京台所に変わったのでは(当方)

 最近、連続して色街の研究が多い。色街は滅びの美しさがあり、たまに行くと面白いが観光用だと思う。しかし、街が小ぎれいになりすぎるのは良くない。闇や影が必要であり、色街もだ。定年退職で憧れの芸者遊びの一日旦那になれるなどのファンドを売ってはどうだろうか。月1万円でも20年でそこそこ溜まる。積立の間、ネットで芸や舞子から芸妓の成長を配信するとバーチャル旦那だ。現代の旦那という評価者と金主を育てる必要がある。

 楽しめたセミナーで、当方のみ色街研究で景観やインフラ系の都市計画主流派からは浮いていたかもしれない。

 色の道を行く

コメント
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