副題:何方を見申様に作る事、堅仕間敷事 は建築規制の観点を示す。
労作で建築学会論文を平易な文にまとめ直しており読みやすい。京都の歴史、町家の規制、工法、耐火、防災などの観点で書かれている。
要望としては下記の点があるが、著者の専門ではないため高望みでもある
1.大阪の町割りと京都の比較
・40丈と40間の町割り
・両側町の違い
・排水、下水の違い
2.間口3間の謎
・「側おこし」に必要なのが高さから3間ではないか
・通り庭と木割の関係か
3.町家と仕舞屋(非物販)の割合
・仕舞屋(資産家)が多いと産業低迷では
4.道路の占有の歴史
・平安京は大路が大かったのに今は狭い
・太閤検地で官民確定だが、その時すでに狭い
・江戸時代に中心部は道幅3間+両側に1尺5寸の雨溝(合計6.8m)、それ以外は道幅2間半を定める(但し日射を嫌う市場の錦や椹木(さわらぎ)を除く)→太閤検地から私有化が進んだと思われる
・江戸時代はかずら石(側溝の民家側の端)から3尺2寸5分は引き込んでいたところに軒の戸口があったが、維新以後車除け石まで私有地化したとある(藤田元春)→さらに私有化がすすんだ
・軒に柱がなくカンチレバーなのも、通れる小店の形成と半私有地化のためか
知見を羅列する:
・平安京は鴨川と桂川でぎりぎり成立した規模、16世紀の戦国時代は上京と下京の惣構(囲われた自治都市)、秀吉の御土居と辻子整備、家康の洛中洛外町続き(御土居の外側に拡大し、東側に拡大)
・3間分割は門口と揚見世を確保して最短長さか、軒役(税金)負担が原因ではない
・厨子2階:消防のため、木の流通規格(筏の運び方)から3間木が14尺(丈4尺)の軒柱に丁度会う、
・2階の遊女の座敷は規制→物置にするよう規制
・表は厨子2階、裏の居住棟は本2階が発展
・桟瓦葺(1674年)発明、規制で普及が遅れたが天明の大火(1788年)以降普及
・ウダツよりケラバを伸ばすのを選択→雨じまいや隣地との関係で有利なはず
・建築工法」「側おこし」は柱が分散している→板の縦張りが多い理由はこれか、横張りでは起こせない
・梁間と桁行規制で梁間が3間だが上屋と下屋一体で上屋梁を持たない様式が町家
・ムシコの意味:城郭技術を転用、「武者」窓に通じる、「虫屋」、「虫籠」・「虫子」へ
・仕舞屋は開放的で物販や製造ではなく、閉鎖的で事業を終わっても暮らせる家の様式、格子の発達
・車除け石は何時の間にか官民境界、いまも「いけず石」は角に多い
・木戸の門は石と木の併用→大阪の愛珠幼稚園の扉もこのような様式で面白い
結論:建築規制のあった江戸時代の「京の町家」、規制が外れた明治以降「京都の家屋」、大正の市街地建築物法・都市計画法、昭和の建築基準法での「京都の住居」に定義
いや面白い、お薦めです