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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

映画の中の少女たち

2010-05-13 | 映画
 少女たちの成長が主題となった2本の映画について話してみよう。

 「17歳の肖像」(原題:AN EDUCATION)は、1961年の英国を舞台としたまさに時代そのものが主題となった作品である。
 監督はロネ・シェルフィグ。英国の人気辛口ジャーナリストとして知られるリン・バーバーの短い回想録に基づき、ベストセラー作家ニック・ホーンビィが脚本を書いている。
 はじめ利発で無垢な16歳だった主人公が、ちょっぴり大人の17歳となり、それまで知らなかった人生のほろ苦い側面に触れて成長する。
 その主役ジェニーを演じるキャリー・マリガンはまさにこの映画で花開いた新星といってよいだろう。まるで映画の宣伝文句のようで気が引けるけれど、それほど彼女の魅力はこの作品全体を通して横溢しているのだ。(簡単にいえば、要は私の好みのタイプということにつきるのだけれど)
 一方、アルフレッド・モリーナ演ずる父親ジャックは打算的で家族には専制的にふるまう小市民であるが、娘が直面した危機に際して、気弱さと無力さをさらけだしながらも精一杯の思いやりを見せようとする。同年代の私としては、そうした父親像に思わず共感を覚えてしまう。
 さらに、ジェニーの相手役となるデイヴィッドは、世慣れていながらもどこまでも好感の持てる年上の男性である。その魅力にジェニーはもちろん、両親までもが幻惑されてしまう。観客にはその危うさが見て取れるというギリギリのところで、もしかしたらこいつは詐欺師の色悪なのではないかと思わせる面をしっかりと垣間見せながら、実に巧みなバランスの演技をピーター・サーズガードは見せる。
 彼もまた、ジェニーとのふれあいのうちに今は失われてしまった自分の中の何かを探し求める人間の一人なのだ。

 この映画の時代背景は、まさにビートルズやローリング・ストーンズが表舞台に躍り出ようとするその前夜といってよい。そうした新しい時代の胎動を感じながら、未知の世界に焦がれる人々の姿が描かれるのだ。
 その主人公たちも、今やもう前期高齢者と呼ばれる年齢にさしかかっている。
 懐かしいはずの過去の時代がなぜだかとても新鮮に感じられるのはなぜだろう。
           *
 さて、かたや19歳に成長した不思議の国のアリスを描いたのが、ティム・バートン監督作品「アリス・イン・ワンダーランド」である。
 その造形美にはいつもながらに驚嘆するけれど、正直なところルイス・キャロルの偏執的な夢の世界からはかけ離れた、常識的で、なおかつ教訓的な臭いすら感じられる作品に「堕してしまっている」と言えなくもないだろう。
 このあたりがディズニー映画の所以であり、限界でもあるのだろうか。
 原作が、少し変わったところのある独身数学者の夢見た「少女」の見る夢の世界であったのに対し、この映画のアリスは今や結婚を期待される年齢にあり、まさにある貴族の男性から求婚されているその場から逃れようとしてウサギ穴に落っこちる!
 彼女は常にここではない何処かへ旅立つことを求めている・・・ように思える。夢の世界に入ったのも、次の世界へ飛び立つための準備行為であったと言えなくはないだろうかと思えるのだ。
 その証拠に、映画のラスト、幼かった頃の自分の夢に落とし前をつけた彼女は、自分にまとわりつくあらゆるものを振り切るかのように別の世界へと旅立っていく。
 これは一人の少女が大人の女性へと生まれ変わろうとする成長物語でもあるのだ。まさにこれぞディズニー映画!
 反対にいつまでも幼児性を保ち続けようとするのが、ジョニー・デップ演じるマッド・ハッターのような男性であるというのはどういうことか。彼らは夢から覚めることを恐れるかのように《ごっこ遊び》に固執する。
 とはいえ、この役のしどころはあまりなかったのではないか。見ていてジョニー・デップは大変だったろうなと気の毒に思ってしまった。

 一方この映画の登場人物の中でもっとも親近感を感じたのがヘレナ・ボナム・カーター演じる「赤の女王」だ。
 いびつに歪んだ心と変形した体躯を持て余すかのように奇怪な声で叫び声をあげる彼女の、その成育の過程や背景までをも感じさせるその演技は、まさに真の俳優による仕事といえるだろう。
 その素晴らしい造形によって生み出された「赤の女王」の姿には、誰もが同情にも似た共感を抱くのではないだろうか。


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