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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

グラン・トリノの至福

2009-06-03 | 映画
 クリント・イーストウッド監督・主演の映画「グラン・トリノ」を観た。
 慌ただしい日々のなかでは稀有なことだが、ぽかんと空いた時間を縫って映画館に駆けつけ、まばらな客席に身を埋めてスクリーンに目を凝らすのは何ともいえない至福の時間である。ましてそれがこのうえないような素晴らしい映画である場合にはなおさらである。

 クリント・イーストウッド演じる主人公ウォルト・コワルスキーは自身と同じ78歳。頑固で口が悪く、偏見に満ち満ちた人格である。神を信じず、他人にも息子たち家族にも心を許さない。ギャングまがいの行動をとる無礼な若者たちには、それが白人だろうが、黒人、ヒスパニック、アジア系だろうがお構いなしに罵声を浴びせ、時に応じて銃を抜き、気に入らない相手には平気でつばを吐く。
 若い頃朝鮮戦争に出征した経験を持つ彼は、その後フォードの自動車工として定年まで勤め上げた。唯一の楽しみは、1972年に自らステアリング・コラムを取り付けたヴィンテージ・カー「グラン・トリノ」をピカピカに磨き上げ、ビール片手にそれを眺めること。
 その彼が、ひょんなことから隣家に引越してきたモン族の一家と知り合いになり、姉のスー、弟のタオと次第に心を通わせていく。
 きっかけはタオがウォルトの宝物ともいうべきグラン・トリノをこともあろうに盗み出そうとしたことなのだが、それはタオの従兄であるスパイダーたち不良グループに命じられてのことだった。
 自分の庭でいさかいを始めた不良どもに銃を向けて追い払ったウォルトは結果としてタオを彼らの手から救い出すこととなった。
 やがて、明るく機転の利くスーとの交流から、次第に心を通わせ、その一家に溶け込んでいくウォルトは、引きこもり状態で希望のない生活をしているタオの「父親=人生の師」ともいうべき存在となっていく。彼はタオに仕事を与え、挨拶の仕方にはじまるいわば「男の流儀」を仕込んでいくのだ。

 そうした物語の進展の過程で、ウォルトが朝鮮戦争のなかで癒すことのできない心の傷を抱えていることが明らかになる。スーやタオたちとの交流には、無意識ながらそうした過去への贖罪という意義もあったのかも知れない。
 そうした過去の消しがたい失敗という記憶を抱いたウォルトは、タオを不良グループから守ろうとするなかで再び大きな失敗をする。
 そのことが結果として取り返しのつかない暴力を呼び込んでしまうのだ。
 いきり立つタオをなだめ、こうした時こそ「冷静になれ。冷静になって考えるんだ」と諌めるウォルトはやがて大きな決断をし、ドラマは衝撃のラストを迎える・・・。

 この映画の大きな要素の一つとなっているのが、モン族の人々の存在である。
 一部の中国の人々からはミャオ族と呼ばれることもあるモン族は、中国をはじめとして、タイ、ミャンマー、ラオス、そしてベトナムと、歴史上移住を繰り返してきた流浪の民である。
 ベトナムに住むモン族は、中国における同化政策に抵抗し、19世紀に東南アジアのタイ、ビルマ、ラオス、ベトナムに移住していった。
 さらに、ベトナム戦争の時期、ラオス建国当時にアメリカ政府はインドシナの共産化を防ぐためにモン族を傭兵として戦略に使ったのだが、結果的に、モン族は敗北し、タイへと大量に流れ込んだ。
 難民キャンプを経て、その後、2004年からアメリカ政府がモン族をミネソタ州に受け入れると発表、30万人のモン族がアメリカへ移住したといわれる。

 この映画にはそうした歴史的背景があるのであるが、そうしたアジアの人々を見つめるイーストウッド独特の眼差しは限りなく温かい。
 映画には主人公の姉弟を演じる二人をはじめとして、プロフェッショナルの俳優ではない多くのモン族の人々が出演しているのだが、そうした彼らを演出する監督の手腕もまた見どころの一つである。

 主人公ウォルトが住む地域は、すでにアメリカの自動車産業の衰退を背景として荒廃した住宅地が並び、そこにヒスパニックやアジア人、黒人、イタリア系、ポーランド系など多様な人々が住み着いている。
 家族ですら理解し得ない状況のもと、この映画で描かれるのは、コミュニケーションが崩壊した中での人間関係の在り様である。生命を賭しても守り抜かなければならないものは何かということを主人公はその生き様を通して私たちに訴えかける。

 この映画は静かな興奮と覚醒、そして深い感動を観るものに与えてくれるまぎれもない傑作である。