seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

再び、「グラン・トリノ」について

2009-06-08 | 映画
 クリント・イーストウッドが監督・主演した映画「グラン・トリノ」の素晴らしさについては、すでに多くの人が様々なメディアで発言をしている。
 そうしたなか特徴的なのが、エコノミスト誌をはじめ、経済関係の論説においてこの映画に言及する記事が多くみられるということだろうか。
 6月4日付け毎日新聞では、国際経済学専門の竹森俊平慶応大学教授が「『グラン・トリノ』と金融危機」という文章を寄せている。
 いかにも映画好きらしく、映画的表現にも目配りの利いたよい文章だと思うけれど、そのなかで「まるでアメリカそのものの『葬式』のような映画になっている」と評している部分が端的に表しているように、「グラン・トリノ」はまさに現在のアメリカを暗喩するものとして経済人の関心をも呼んでいるのだろう。
 
 主人公が住んでいるのは、かつて自動車産業の生産拠点だった場所なのだが、いまは荒廃して白人のほとんどが居なくなり、マイノリティーの住民に占拠されるに至ったアメリカ中西部の町である。

 竹森教授は記憶に残った場面として次のように書いている。
 「老人がアジア人の青年に、自分が長い時間をかけて集めた自動車工具の素晴らしいコレクションを見せる場面。現下の経済危機、ことにそれに伴って起こったビッグ・スリーの経営危機と考え合わせるとまことに胸が痛む場面だ。アメリカもかつては『ものづくりの国』だった。その伝統が金融の思想が支配する経営戦略によって、めちゃくちゃになったことを想起させるのである」

 そしてもう一つの場面。老人と青年の「告別」の場面である。
 「老人は朝鮮戦争の時に受け取った自分の勲章を、青年の胸に刺す。寓意的な意味は言わずもがなであろう。アメリカが将来をアジアに託しているのだ」

 アメリカが将来をアジアに託している、という意味がこの映画の背後にあることはそのとおりだと思うけれど、このシーンの解釈については若干異議がある。
 殺す必要のなかった朝鮮人兵士を殺したことに心の底で深い罪の意識を持ち続けている主人公が、まさにそのことによって得た勲章を、夢や将来を託すためにアジアの青年に委ねるものだろうか。
 あえて言うなら、老人が遺言のなかで「グラン・トリノ」を自分の家族ではなく、青年に譲り渡したことにこそ、その意味は深く込められているのではないか。
 勲章を託す場面は、謝罪と融和を象徴するものと捉えるべきではないのだろうか、というのが私の感想である。

 いずれにせよ、そんなことを考えさせる深い社会性をこの映画は有している。
 それが単純な主義主張などではなく、すぐれた映画表現と娯楽性を兼ね備え、イーストウッドというスターが出演する興行的にも成功した作品たりえていることが素晴らしいのだ。

 舞台芸術は、果たしてこれに拮抗する作品を生み出しえているだろうか。