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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

たった一人の中庭

2012-11-18 | 演劇
 にしすがも創造舎におけるフェスティバル/トーキョーの主催演目の一つである、ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKsによる「たった一人の中庭」を10月28日(日)と11月2日(金)の2回にわたって観ることができた。
 28日は暗い雨の降りしきる中、2日はよく晴れた日の夜であった。
 廃校施設を転用した「にしすがも創造舎」の旧校舎の地階にある特別教室と3階の教室全部、そして別棟の体育館すべてを使ったこの演目は、演劇とも巨大な美術作品とも言いようのない、様々な芸術領域を軽々と越境しながら、まさにこの場所でしか「上演」し得ない表現=作品なのだった。
 人々はこの場所を経巡り、異次元空間を流れる時間の中に突如紛れ込んでしまったような感覚に身を委ねながら、観客として、時には自らが観られる客体として作品の中に入り込みながら、この展覧会形式の演劇を体験するのである。
 演劇版3D体験とでも言えばよいのか、ジョルジュ・デ・キリコの絵の中に入り込んでしまったような、舞台美術のひとつに自分自身が同化してしまい、目の前で、すぐ横で、背後で、何かが起こりつつあるという不思議な感覚……。
 ジャン・ミシェル・ブリュイエールは、映像作家、作家、美術家、演出家、写真家、グラフィック・デザイナー等々、複数の顔を持つアーティストとして紹介されているが、たしかにそうした多面的な才能が、多様な人材からなるアーティスト集団であるLFKsと結びついてこれらの場の磁力が生み出されたのだと感じる。

 ヨーロッパでは、今この瞬間にも数万人規模の人々が、300か所ものキャンプ=難民収容所隔離されているという。不法滞在者やロマ族が暮らす移民キャンプ……。
 「たった一人の中庭」はその実態をアーティスティックな視点で再構成した作品である。

 描き出されるのは、インターネットラジオから流れる音楽に合わせて踊りに興じる白いモンスターたちであり、元家庭科室では何千個もの白い卵が部屋中に増殖して溢れ出し、元理科室では首のない白いトルソーたちが入浴する中を水道の蛇口から断続的に流れる水がリズムを刻む。
 体育館に設えられた野営キャンプを思わせるテントの中では、一人の痩せこけた黒人移民を強制送還するための作業が延々と繰り広げられている。時折ラジオから流れる音楽に合わせた白い防護服の男あるいは女たちの踊り、そして料理と給仕、健康診断といった手続きが長大な、スローモーションのような緩慢な動きとともに展開される。
 そこを抜けると、広大な体育館の床いっぱいに白い繭玉のような雪が堆く積もった中に無人の何十台もの電動ベッドが整然と並び、それらはゆっくりと上下しながらダンスする。
 その傍らでは、機械仕掛けの電動アームの先に取り付けられた筆が巨大な抽象絵画を描き出す。筆の先から滴っているのは、動物かあるいは誰か殺された人の血のようでもある。

 私はこの光景を見ながら、カフカの小説「流刑地にて」を思い出したけれど、今になって思えば、筆から滴る血は、東京芸術劇場で観た「レヒニッツ(皆殺しの天使)」で虐殺された人々の血につながっていたのである。
 単純な図式としては、レヒニッツが加害者の視点に立つとすれば、「たった一人の中庭」は抑圧される者の視点に立つとも言えるのかも知れない。
 この2つの作品は対になっているのではないか……、というのが私の感想だ。
 それにしても「中庭」とは何だろう。

 カフカの書いたある断片を思い出す――。
 屋根裏部屋で本を読んでいたひとりの学生が、中庭のほうから大きな悲鳴のような声がするのを聞く。「たぶん耳の錯覚だ」と、学生は独り言をいうが、ややあって、本の文字が凝縮し変形すると「錯覚ニアラズ」と読めた。「錯覚なんだよ」と、彼はくりかえして、不安定に動揺している行を、人差し指でなぞってもとに戻してやった。
      ~カフカ・セレクションⅠ 時空/認知「三軒の家がたがいに接していて」より

 さらにもう一つの断片――。
 それは夏の暑い日だった。妹と一緒に家へ帰る途中、あるお屋敷の中庭の戸口の前を通りかかった。思い上がった悪ふざけだったのか、ただ放心してぼんやりしていたせいなのか、よく判らないのだが、妹がその扉を叩いた。……
 ……部屋は農家の一室というより、刑務所の独房に似ていた。大きな石の張り詰められた床、寒々とした灰色の壁。そこには鉄の輪が埋め込まれて吊り下がり、中央には裸の寝台とも見え、また手術台とも見える大きな机が置かれていた。
 ……私には牢獄の空気ではない空気の味が、まだわかるのだろうか? これは大きな問題だ。いや、もし仮に赦免の可能性があるのなら、それが大きな問題になるだろう、ということなのだが。
            ~カフカ・セレクションⅡ~運動/拘束「中庭への扉を叩く」より

 もう一つ、筆の先から滴る血は、一人の青年に惨殺されることになる老婆の血をも思い出させる。

 ……ちょうどそのとき、下の中庭のほうで、だれかの叫び声が響きわたった。
 「六時はとっくにまわってるぞ!」
 「とっくにだと! しまった!」
 ……猫のように注意深く足音をしのばせながら、ラスコーリニコフは十三段の階段を降りはじめる。……そして彼は庭番小屋から、例の一人の老婆を打ち殺すことになる斧を盗み出すのだ。
 〈こいつは理性じゃない、悪魔のしわざだ!〉

 私は体育館を出ると、月に照らしだされた校庭=中庭に一人佇んだ。
 言いようにない静寂があたりを包み込み、私は私を見つめる何者かの眼差しを背後に感じていた。


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