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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

おもいのまま

2011-08-02 | 演劇
 7月7日に観た舞台「おもいのまま」について記録しておく。もうひと月近くも前のことになろうというのに、時おり思い出してしまうのはそれだけの奥深さを持った作品だったということなのだろう。
 演出・美術・音楽デザイン:飴屋法水、脚本:中島新、出演:石田えり、音尾琢真、山中崇、佐野史郎、会場:あうるすぽっと。

 ある幸せに暮らす夫婦の前に突然現れる2人組の来訪者。彼らはあるテレビ番組のニュースキャスターを名乗り、取材を申し出る……が、玄関に入り込むや否や態度を豹変させた彼らは傍若無人なふるまいである事件に関与したはずとばかり夫婦を執拗に尋問していく。その過程で次第に暴かれていく夫婦の「秘密」……というのが、この芝居の大筋である。
 どこかイギリスの劇作家ブリーストリーの名作「夜の来訪者」を思わせるけれど、大きく違っているのが、2人組の来訪者がどうにも胡散臭い告発者であることだ。
 この2人は、真実を暴く正義の報道キャスターなどではなく、なかったことをあったように捻じ曲げ、でっち上げながら、夫婦に対してその自白を拷問まがいの手口で強要するのだ。やがて追いつめられた夫は妻の前で自身の秘密をさらけ出して行く……。

 この芝居の面白さは、大きく2部構成に分かれた前半では救いようのない展開で悲劇的な終焉を迎えたものが、後半の舞台では、同じシチュエーションで同じ場面が繰り返されると思わせながら、闖入者とのやり取りで家の主人たちが前半とは異なる対応を選択することで、まったくちがった結末を迎えるという構造にある。
 これは、舞台の企画者でもある石田えりが、ある救いのない映画の結末を観て怒りを覚えたことからの発案という話を聞いたことがあるけれど、そう単純素朴に割り切れるストーリーではなく、観客は、パラレルワールドを思わせる異空間を見せつけられたような、あるいは、奇妙な既視感によって得体の知れない世界に入り込んだような感覚を味わうことになる。
 観客は、いたぶられる夫に感情移入しながらも、どこか残忍な視線でその動向を観察することになる。それは、どこか鳥かごを思わせるこの家の舞台セットが、愛玩するペットの死を目の当たりにしたような飼い主の視点を誘発するからだろうか。
 飴屋法水の美術と音響デザインは、丁寧で入念な演出と相まって、極めてリアルなザラツキ感と非現実的な世界を如何なく構築している。
 それは多様な選択肢の中から私たち自身が選び取ってきたはずの現在の社会状況や政治情勢を端的に表しているとも思える。
 それゆえにか、この芝居のラスト、唐突でもあり、とってつけたような希望を感じさせるエンディングに居心地の悪さを覚えつつ、私たち観客は、この世界の虚構性を思い知ることになるのだ。

 最後になって、私は、もしかしたらこの舞台上で演じられた時間のすべてが、平穏な応接間のなかでまどろみながら夢に見た妻(石田えり)の妄想なのではないかとも感じたのだったが、どうだろう。

 そんなあらぬ考えもまたあり得ないことではないと、ラストシーンにおける彼女の無垢で無邪気な笑顔を見ながら思ったのだ。
 突然襲い掛かった災厄のもと、嵐のような夫婦の危機を乗り越えたあとの平穏を思わせつつ、そんな複雑な仕掛けも秘めた心に残る舞台だった。


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