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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

『サラエボでゴドーを待ちながら』を読んで

2021-08-30 | 演劇
 スーザン・ソンタグが書いたエッセイ「サラエボでゴドーを待ちながら」(冨山太佳夫訳)を読んだ。これは、ソンタグが1993年8月、戦火の広がるサラエボで地元の俳優たちとともにベケットの「ゴドーを待ちながら」を上演した時のことについて書かれたものである。
 役者にしても観客にしても、劇場への行き帰りの途中で狙撃兵の銃弾や迫撃砲の砲弾のために殺されたり、負傷したりしかねない状況のもと、彼らはその舞台上演に取り組んだ、その経緯には深く心を動かされる。演劇関係者のみならず、文化芸術に関心を持つ者にとって切実な問題意識がそこにあるように思えるのだ。
 1993年といえば、阪神淡路大震災の2年前であり、東日本大震災はその18年後ということになるが、戦時あるいは災害時における芸術の持つ意味について考えさせられる。

 当然のごとく、ソンタグもメディア関係者から次のようなことを質問されたのだ。以下、一部ソンタグの文章を引用。
 ……それにしても、この戯曲は悲観的すぎはしないだろうか。私はそう訊かれた。サラエボの観客にとっては気が滅入りすぎはしないか、(中略)人々が現に絶望しているときに絶望を見せるというのは余計なことではないのか、(中略)この見下ろし目線の、俗物的な問いは、それを口にする人々が、今サラエボがどうなっているのかを少しも分かっていないし、本当は文学にも演劇にも関心がないのだということを、改めて私に実感させてくれる。誰もが望むのは、自分自身の現実からの逃避を提供してくれるエンターテインメントだというのは正しくない。他のどんなところとも同じで、サラエボにも、自分たちの現実感を芸術によって肯定され、変形されることによって力づけられ、慰められる人々が少なからずいるのだ。……

 ソンタグの感じた印象では、サラエボでは、バレエ、オペラ、音楽生活は日常的なものであり、とりわけ映画と演劇だけは別格であったので、包囲下でもそれが続いているというのは驚くようなことではない、とのことだ。
 それだけの文化芸術に対するリテラシーの深さ、裾野の広さに驚嘆するしかないのだが、これをわが国の現状に照らしてどう考えればよいのだろう。

 改めて、コロナ禍により非日常が日常と化したこの社会における文化芸術のあり方について深く考えるべきなのだろう。
 さらに、アフガニスタン、ミャンマー、香港をはじめ、困難を抱えた人々の間で、演劇、映画をはじめとする芸術がどのように機能しているのか、あるいは無化されてしまっているのか、その現状について思いを寄せたいと思うのだ。


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