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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

静かな部屋

2008-12-02 | アート
 11月24日の月曜、国立西洋美術館で「ヴィルヘルム・ハンマースホイ―静かなる詩情―」展を観た。本当はシアター・トラムでやっていた岡田利規演出の「友達」を当日ねらいで観るために三軒茶屋まで行ったのだったが、2時間15分、立ち見になりますと言われ、腰痛持ちの老俳優は泣く泣く諦めたという計画性のなさである。
 電車を乗り継ぎ、車中、堀江敏幸の短編集「未見坂」など読みながら上野に向かった。それはそれで贅沢な時間の使い方なのだと思う。
 折しも降り出した雨の中、美術館の入り口は思いのほか列をなす人だかりである。ただ、ハンマースホイ(1864-1916)はデンマークのフェルメールと呼ばれ方をすることもあるようで、ちょうど東京都美術館でやっている「フェルメール展」と勘違いして並んでいる人もいたらしい。受付付近で誘導していたお兄さんが「こちらはフェルメール展ではありません。お気をつけください!」と何度も叫んでいる。まさか、と思っていたら本当に勘違いしていた人がいたらしく、「フェルメール、どこでやってんの?」と大声で係員に訊ねては「あちらでございます」と指示され、そそくさと立ち去る老夫婦もいて、何となく微笑ましい光景である。
 絵画を観た感想をシロウトが文章で書くことほど虚しい作業はないのだけれど、それでもコペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地のアパートを舞台に描かれた、後ろ姿ばかりで顔を見せることのない妻イーダの姿や、家具や装飾品の取り払われたガランとした部屋の白い扉や開いた扉、何もない部屋にただ陽光が洩れ入っている画面に私は強く惹きつけられる、と言いたい。
 この絵の何がこれほどのインパクトを与えるのか。生前、ヨーロッパで高い評価を得た、チェーホフや森鴎外と同世代のこの作家が、死後急速に忘れ去られ、そしてまた、10年ほど前から再び脚光をあびるようになったのは何故なのか・・・。
ちょうど今月号の「芸術新潮」で、詩人で多摩美術大学教授の平出隆がハンマースホイを紹介しているが、興味深いのは作家自身の言葉である。
 曰く「一枚の絵はそこにある色の数が厳しく抑えられていればいるほど、最高の効果を発揮する。私は無条件にそう考えている。」
 「だれもいないのに美しい、ではなく、正確には、だれもいないから美しい、というべき部屋がある。そんなことをずっと考えてきた。」

 静かな詩情・・・とか、静謐に充ちた・・・というありきたりな形容詞に惑わされてこの絵を見ると、たしかにそんな気もするのだが、そうした先入観を振り払って絵を見ていると、そこには思いもかけない喧騒が渦巻いているように見えないこともない。
 「ピアノを弾くイーダのいる室内」には確かにピアノの音が充ちているだろうし、後ろ姿ばかりの向こうでイーダがどんな顔をしているのか分かったものではないのだ。忍び笑いをしているのか、怒り、あるいは嫉妬に駆られた行き場のない感情で室内の空気をぴりぴりとした緊張に震わせているのか・・・。
 たしかなのは、その絵が、周到に何かを引き算し、あえて描かないことでそこにはない何ものかの存在を表現し得ているということだ。
 何もない部屋に充満する何かを私たちはこの絵から感じ取る、そして私たちはこの絵から眼を離すことができなくなるのだ・・・。
 ハンマースホイは出発の初めから完成された画家であり、限られたモチーフに固執して、発展や進歩とは無縁の作家だったとも評されている。
 しかし、そんな評価は彼にとってどうでもよいことだったろう。ハンマースホイは何も描かないことではじめて表現しうる何かを、誰にも知られぬ方法でその絵のなかに深化させ、飛翔させた画家であったに違いないからである。


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