seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

進化と変化

2009-09-20 | 言葉
 ビジネスの現場でよく聞かれる言葉に次のようなものがある。
 「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」と、あの進化論のダーウィンは言っているというものだ。
 だからこそ変革は不断に行われなければならないし、イノベーションこそが企業や組織の発展には必要だという論法である。

 ところが、13日付毎日新聞の書評欄で中村桂子氏が取り上げている松永俊男著「チャールズ・ダーウィンの生涯」によれば、「ダーウィンの著書や稿本のどこにもこんな言葉はない。これも変革を正当化するために、勝手にダーウィンの名を利用しているにすぎない」のだそうだ。
 著者は、1960年以降に翻刻されたダーウィンの草稿や自伝などをていねいに確認したうえでの指摘だそうだから、おそらく正しい指摘なのだろう。

 だとすればこれは誰が言い出したことなのだろうという疑念が当然のことながら浮かび上がって来る。
 それは分からないが、《ダーウィン=進化論》というブランドイメージを錦の御旗として自己の主張を展開しているのに違いはない。
 ダーウィンの名言というだけで、疑いもせずに真に受ける愚というものを私たちは反省しなくてはならないのではないだろうか。

 しかしながら、である。
 上述のことは、松永俊男氏の指摘を100%信じるならばという留保つきの論旨にほかならない。
 私自身がダーウィンの著書や稿本の全てに目を通して確認していない以上、その指摘を孫引きしてエラソウナことをいうこと自体が意味のないことだと言うほかないのである。

 結局、すべては疑ってかかれという教訓に行き着いてしまうのだろうか。

 昨年来、「チェンジ」「変化」といったキーワードがひとつの流れをつくったということは確かなことである。
 「政権交代」は果たしてどのような変化と進化をこの社会にもたらすだろうか。
 このブログでも何度も取り上げた例の「国立メディア総合センター」構想は見直しが必須のようだが、ではそのことで何が変わるだろうか。
 「国営マンガ喫茶」などという言葉がひとり歩きし、揶揄の対象となったが、そのことでクリエーターの現場の大変な実態がクローズアップされるという利点はあったと思われる。
 無駄なハコモノというだけでばっさり廃案にするのではなく、メディア文化を国策と捉える視点が少しでもあるのならば、その予算を現場の製作者たちを応援することに使ってほしいと願わずにはいられない。
 そうではなく、結局何も変わらないのであれば、あの大騒ぎの時、現場の立場からセンター設置に異を唱えた人たちの声はそれこそ政争の具として使われたに過ぎなかったということになってしまう。
 幸い新しい大臣は単純な凍結論ではなく、多くの人の声に耳を傾けてみたいというスタンスのようだ。
 今後の動向を注視したい。