seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ザ・ダイバー

2009-09-01 | 演劇
 29日、野田秀樹作・演出の「ザ・ダイバー 日本バージョン」を東京芸術劇場小ホール1で観た。
 開演の1時間半ほど前からホールの入り口に並んで当日券を求めたのだが、こうした観劇は本当に久しぶりのことで、こうやって沢山の人と一緒に並びながら発券までのヒマをつぶすという時間の費やし方もひっくるめて芝居を観る醍醐味なのだなあと改めて感じた。それは心躍る体験なのだ。
 はからずもこの日は政権交代がキーワードとなった選挙戦の最終日。与野党の党首は池袋駅の東西に分かれて最後の演説に声を張り上げ、何万人もの人が耳を傾けたはずである。
 そうした世の中の潮目が変わりつつあることからあえて背を向け、たかだか250人ほどの小劇場の暗闇にそっと身を潜ませ、劇世界にダイバーとなって惑溺するという距離感もまた一つの体験ではあるだろう。

 さて、芝居は、源氏物語「葵」「夕顔」と謡曲「海人」「葵上」を中心的なモチーフとしつつ、現代に起こった多重人格と思われる女性による放火殺人事件を絡めた物語として描かれる。
 私はロンドン・バージョンを観ていないので比較はできないのだけれど、主人公の女を演じた大竹しのぶは、絶妙な切り返しで瞬時に転移する人格や女の感情を表出して実に見事だ。
 また、多重人格でありながら一人の人物を演じる大竹しのぶと、様々な役柄を演じ分ける野田秀樹、渡辺いっけい、北村有起哉といった3人の男優のアンサンブルが素晴らしい。
 もっとも野田が演じるのは精神科医のひと役であり、彼が途中で源氏の妻・葵になるのは別のひと役を演じるのではなく、葵の霊が精神科医に憑依したということなのだろう。
 極めてノーマルな第三者的立場で患者を観察するようで、かつ気弱なふうでもある精神科医を演じる野田が葵となってから徐々に病的な残忍さを滲ませるようで、その果てに突如垣間見せる暴力性は観客を震撼させずにはおかない。
 役者・野田秀樹はこうしたものという私の勝手な先入見を打ち破る演技だった。

 大竹しのぶに関して付け加えれば、以前テレビドラマで多重人格者を演じていたことからも、おおよそ予測できる役の造形ではあるのだけれど、直感型あるいは本能的な女優という印象を払拭する緻密な演技であったと思う。
 発声や呼吸法、切り返しのタイミング、叫び声をあげる時の抑制など、駆使されるテクニックは若い俳優のお手本にしたいほどだ。

 さらに加えて特筆しておきたいのが、ソファや椅子といった簡素な装置や扇などの小道具、衣装を様々に工夫して使い、あるいは別のものに見立てながら、現在と過去、場所など、時間軸や空間軸を自在に転換させる演出である。
 これは能をよく観る人であれば当たり前と思われることかも知れないのだが、このスピード感は、三島由紀夫が「能ほどスピーディな演劇はない」と言ったことをも想起させながら極めて新鮮なものに思える。
 おそらくは4人の俳優たちがワークショップのようにアイデアを出し合いながら組み立てていったのであろうそうした遊びの要素や稽古の積み重ねの様子までもが目に浮かぶようで実に面白い。
 
 その一方、この舞台が能の様式を取り入れることで成り立っていることは十分理解しつつも、俳優の演技における能を思わせる所作が少しばかり中途半端な表現に終わっているのではないかとの感想がないわけではない。
 そうした点も含めつつ、これからの私自身の人生の時々に折に触れて思い出すに違いない、実に見応えのある刺激的な舞台だったと思う。