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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

三番叟とライオン

2009-09-09 | 舞台芸術
 8日、「三番叟」を東池袋の劇場「あうるすぽっと」で観た。
 狂言師の九世野村万蔵による「狂言三番叟」とコンドルズの近藤良平による「コンテンポラリー三番叟」の2部構成の舞台である。
 片や「伝統~受け継がれるかたち」、片や「現在~生まれいずるかたち」とあるように両者を同じ囃子方によって結びつつ、並べて展覧することによって観客の目に化学反応を起こそうという試みといってよいのかも知れない。

 三番叟は狂言が生まれる以前からある神事ともいうべき古い芸能である。
 何百年という時のふるいをかけられながら洗練されてきたその「型」はまさにゆるぎのないものだ。
 これに対し、近藤良平は新たな型を生み出そうというのか、あるいは厳然と聳えるような型の前でのたうちまわろうとするのか。
 感想はあえて控えるとして、近藤の繰り出す身体表現はかつて狂言の始原はかくあったであろうと思われるような破天荒かつ人々の耳目を惹きつけずにはおかないリズム感に躍動している。
 これが長い長い時間のなかで削ぎ落とされ研磨されながら「型」となっていくのだろう。

 「伝統は革新の連続のはてに生まれるもの」とはよく言われることだ。亡くなった八世野村万蔵(野村万之丞)氏もよくそう言っていた。
 氏のアジア全域の歴史と空間を見据えた壮大なビジョンというか大風呂敷をなつかしく思い出しながら、この2つ並べた三番叟を観ることで、あたかもそれらが循環しながら新たなものを生み出していく、そのはじまりに立ち会ったような気持ちになった。

 話は変わるけれど、劇場からの帰り、今年閉店となったばかりの池袋三越の前を通った。年内には家電量販店に生まれ代わるとのことで今は改修工事のためのシートに被われている。
 三越のシンボルでもあった青銅のライオン像がいつの間に姿をくらましたのか記憶にないのだが、あれはいったいどこに行ってしまったのだろう。

 ちょうどいま北村薫の直木賞受賞作「鷺と雪」を読んでいて、そのなかに収められている「獅子と地下鉄」にロンドン・トラファルガー広場のライオン像を模して作られたという三越百貨店のライオンの話が出てくるのを思い出した。このミステリーにおける重要なキーワードなのだ。
 小説は昭和10年前後の東京が舞台なのだが、その頃はまだ「三越即ちライオン」といわれるまでにはなっていなかった。
 人間の歴史はたかだか50年で大きく変動する。
 芸術はどうか。芸能はどうか。継承と革新という狭間で人々はそれらを次の世代につなげるために連綿と紡ぎ続ける。

 「鷺と雪」の登場人物たちはよく能を観る。小説の中には関連する話題が詰め込まれていて、そうした薀蓄に耳を傾けるのも北村薫の小説を読む楽しみ方のひとつである。
 帰りの電車に揺られ、ページを繰りながら、三番叟のお囃子が耳の中でリフレインするのを独り噛み締めていた。