seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

演劇祭 予告編・CM大会

2009-08-13 | 演劇
 10日、第21回目を迎えた池袋演劇祭の前夜祭である「予告編・CM大会」を観る機会があった。(会場:あうるすぽっと)
 1989年にスタートしたこの演劇祭の特徴は、手作り感覚で若手の登竜門としてあたたかく彼らを見守ってやろうという意識が主催者の側にあるということだろうか。
 演劇祭としての小難しい理念やテーマ、プログラム選定はなく、肩の力がぬけて心地よい代わりに、何でもありの雑多な印象は拭えない。
 専門家が観てこれらの舞台を批評の対象にするかというと、殆どそんなことはないのだが、市民から選ばれたいわば素人の審査員が投票して賞を授与するという方式も、草の根的な地域発の演劇祭としてはふさわしいのではないかと思える。

 さて、今回の「予告編・CM大会」には30劇団ほどが参加していたのだが、ハダカ舞台で地の照明のもと、2分間で自分たちの舞台をアピールするというこの試みはしかし相当に過酷な試練を出演者たちに強いるものである。
 とにかく、その力量がもろに舞台にあらわれるのであって、否応なく相対化された身体を観客の目に晒しながら役者たちは舞台上を右往左往することになる。
 この形式はお笑いにこそふさわしいのか、舞台上の彼らは何だか皆、コント集団か欣ちゃんのかくし芸大会の出場者のように見えなくもない。それがシリアスな内容の演目であったりした場合、私としてはただ同情するしかない。

 それにしてもそうした状況設定を見事に活かして、2分間の舞台作品として創り上げた劇団が2つほどあったという点は発見であった。特に劇団名はここには書かないけれど、これからの彼らに注目していきたいと思う。

 「予告編・CM大会」の終了後、劇場ロビーいっぱいに集まった彼らとともに、これからの舞台の成功を祈って乾杯した。
 その若々しいエネルギーの発散はうらやましいばかりだ。すっかり忘れてしまった昔の自分をその喧騒の中に探しながら、彼らの声にただ耳を傾けていた。

地域発 新作オペラ

2009-08-13 | 舞台芸術
 9日、東京芸術劇場で「ひかりのゆりかご~熊になった男」というオペラの舞台を観た。
 本作は岐阜県発の新作オペラで、昨年の当地における公演の大成功を受け、東京での公演となったものという。
 家庭崩壊や地域社会崩壊に象徴されるような現代の日本人の心の喪失、自然破壊や環境破壊という私たち自身に関わる身近な内容にスポットを当てながら、「家族の絆」「親子の絆」を見つめ直そうというものであると、主催団体の代表者がパンフレットに書いている。

 もちろん、その意気込みに否やはないし、志には心からの賛意を表するけれど、その舞台成果としてはどうだったか。日本語の、それも市民参加でオペラをつくることの難しさばかりが浮き彫りになったように感じてならない。
 私は音楽にはまったくの素人だけれど、オペラ歌手たちに若手の小劇場演劇まがいの設定で演技させても観るほうはまったく乗っていけない。まるで、キャリア官僚が吉本の舞台でお笑いを演じているようで何とも居心地が悪くてしかたがない。
 もっと音楽劇に特化したほうが数段インパクトは高まったように感じる。

 地域発の舞台なのだから、もっと郡上八幡という場に特化した歴史的な物語にするか、あるいは逆により普遍性を持たせた寓話的な設定にしたほうがテーマに迫れたのではないかと思えてならないのだ。

 問題なのはビジョンであり、何を見せ、何を感じさせたいのかということだと思う。
 緻密な構成の現代演劇と異なり、オペラはテーマに素直にまっすぐ迫ることのできる表現形式である。臆することなく物語を創るべきではないだろうか。