seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

飛翔する音楽

2009-07-06 | 音楽
 4日、東京芸術劇場で西本智実指揮の東京交響楽団を聴いた。
 東京文化会館が都内の自治体や団体と共催して、若手アーティストを発掘・支援するという役割も担った演奏会で、今回は若干17歳のヴァイオリニスト成田達輝が出演、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏した。
 恐れを知らない17歳というべきか、真っ直ぐ力いっぱいにその技量を示した演奏ぶりは微笑ましくも頼もしい。西本智実もまた彼を前面に押し出すようなサポートに徹した指揮で実に好ましい。
 それにしてもどれだけの時間の積み重ねを経てこうした演奏が成り立っているのかと思うと、思わず襟を正したくもなるけれど、正そうにも怠惰が骨の髄まで染み込んだ私には感嘆の声を出すことしかできない。

 さて一転、休憩後のチャイコフスキー:交響曲第5番は西本智実の独壇場であった。
 人気のあるスター指揮者ゆえ、開幕前のロビーでは、CD購入者にはサイン会の特典ありとのアナウンスでそのCDが飛ぶように売れていた。
 会場内のすべての眼と神経が彼女の一挙手一投足に集中するなか、その指揮棒やダンサーのように舞い、振りかざす腕の先が演奏者一人ひとりとつながり、ダイナミックな音をつむぎ出していく。
 
 私はクラシック音楽ばかりか音楽そのものにまったくの門外漢だから感想めいたことしか言えないのだけれど、音楽は常に身近にあって助けてくれるかけがえのない存在だ。
 酔いどれ作家のチャールズ・ブコウスキーが日記に書いている。
 「ああ、そうだった、クラシック音楽というものが存在するのだ。結局はそれに甘んじなければならなくなる。」
 「ラジオからはマーラーが流れている。彼は大胆な賭けに出ながらも、いともやすやすと音を滑らせる。マーラーなしではいられない時がある。彼は延々とパワーを盛り上げていってうっとりとさせてくれる。ありがとう、マーラー、わたしはあなたに借りがある。そしてわたしには決して返せそうもない。」

 その日、私は1階席の最後尾にいた。そのせいか、指揮者を中心に演奏者たちはぎゅっと固まって見える。指揮者自身が自分の周りにぎっしりと楽器を配置した奏者のようだ。
 女性としては大柄であるにせよ、大身長躯の男性指揮者と比べたら断然きゃしゃで手足も短いはずの西本智実がひとたびタクトを振るうと、まるで舞台上のすべての楽器に彼女自身の手が伸びてそれを演奏しているかのような一体感が生まれるのだ。
 指揮者は紛れもないパフォーマーなのである。

 舞台上のパフォーマンスは躍動する情動と冷徹な精神の絶妙なバランスによって成り立っている。それを支えるのはなんといっても長い気の遠くなるような鍛錬によって培われた肉体なのだ。
 優れた現代舞踊のダンサーのように華麗に飛翔し続ける西本智実を見ながら、私は、あらゆる芸術が汗を伴う労働によって賄われるということを今さらのように実感していた。