seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

国立の? マンガ喫茶?

2009-07-02 | 文化政策
 国立メディア芸術総合センターをめぐる議論がかまびすしい。
 その是非については、税金の無駄遣いとして政権与党を批判する勢力や政権内にありながら「国立のマンガ喫茶」と揶揄した元大臣のみならず、アニメ界など関係者の間でも意見が分かれている。

 なぜこうした事態になったのだろう。安倍政権の頃から検討されていたというなら、今このタイミングで、しかも補正予算という形で出された理由は何なのか。
 117億円という予算規模を桁外れのムダと見る向きもあれば、テーマパークのアトラクション1個程度に過ぎないこの予算で何ができるのかと疑問視する意見もある。

 最近は頻繁にこの話題が新聞に載るものだから、様々な意見があるものだと思うけれど、どれも一理あって、読むたびにそうだなあと頷くばかりで我ながら誠に情けない。
 里中満智子氏の言うように、すでにその多くが失われたばかりか、劣化が著しい原画を保存・修復することの意義や、海外で海賊版が出回るなか、この施設によって著作権者は日本にいるとアピールすることの必要性を訴える意見には説得力がある。
 その一方、現場は疲弊しており、作品を制作できなくなりつつある状況下で、発信・アーカイブに予算を投入しても意味はないという意見の切迫感も胸に迫る。

 日本動画協会によれば、動画の仕事の9割超は海外に流出しているというし、国内の制作会社では、1人あたり年間300万円の売り上げしか確保できない状態だという。
 今の日本では新人育成のための土壌がやせ細り、すでに若手が育っていくというシステムが壊れつつあるのだ。
 こうした事態は他のものづくり産業とも共通した構造にほかならない。
 かつては漫画を読むとバカになると言われ、悪書扱いにされ焚書まがいの運動まであった時代と引き比べるとまさに隔世の感があるのだが、国家レベルでそれを守ろうと考え始めた時、すでにそれは衰退の道を辿り始めているのかも知れない。
 本気でメディア芸術を発展させようとするのであれば、しっかりと議論し、課題を明らかにしながらその克服に向けて総力をあげて取り組むべきだ。
 結局、この施設を作って国が何をしようとしているのかが伝わってこないということに問題があるのではないだろうか。

 近年、各地域でマンガやアニメを核とした「街おこし」が盛んになりつつある。
 それらは単に海外でも評価の高いアニメやマンガを観光の目玉にすえて人集めをしようということかも知れないのだけれど、せっかくの機会である、人材を育て、産業として成り立つような創造環境をいかに整備するかということについて真剣に考えたいものだ。

アーティストの言葉

2009-07-02 | アートマネジメント
 美術をはじめ、文学、演劇、ダンス、映画、アニメ等々、いずれの分野でもよいのだけれど、それを創る作家=アーティストがいて、それを鑑賞する観客、読者など受け手となる人々がいる。
 また、その中間には、編集者や学芸員、制作者など、作品づくりをサポートする立場の人々がいる。さらには、スポンサーや出資者など、アーティストを物心両面で支援することに意義を見出す人たちもいるだろう。
 創造された、あるいは創造されるであろう「作品=表現」を核としながら、様々な立場の人がそれぞれの欲求や考え方のもとに生活し、それが成り立っているという事実は思えばとてつもなく面白いことである。

 アーティストの独自の表現=創造性=作家性はどこまで擁護されるべきなのかということについて考えたい。それは、守られるべきものではなく、作家自身が戦って得るべきものではないのか。
 以下、考察のための個人的なメモ書きである。論理的には飛躍があるかも・・・。

 時の為政者=権力者が文化を意のままにしようする欲望は洋の東西を問わない。彼らはみな、自らを称揚し、賞賛する曲を奏でさせ、詩を書かせようとする。
 誰もが権力者ではないにせよ、誰でも自分好みの絵を描かせたがるものだ。

 「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」(村上春樹編・訳)のなかにD・T・マックスが1998年8月のニューヨーク・タイムズ日曜版付録「サタデー・マガジン」に寄稿した「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか?」という文章が収められている。
 カーヴァーの初期作品のいくつかには、編集者ゴードン・リッシュがかなり大幅に手を入れていたという事実が、新しい資料から発覚したことに端を発するこの記事は、アメリカ文壇および読書界に大きな波紋を与えたようだ。
 「これは実のところ、編集というカテゴリーには留まりきらず、見方によってはむしろ「共同執筆」と呼んでもいいほどの大がかりなものであった。その事実は果たしてレイモンド・カーヴァーの価値を貶めることになるのだろうか?」・・・と村上春樹は解説に書いている。

 ゴードン・リッシュの作家的欲望が編集者としての領分から足を踏み出してしまったのだ。
 これはあまりに極端な例であり、到底受容し難い事実であるとしても、多かれ少なかれ、作家と編集者との間には、ある種の共同作業的な部分があるというのは事実だろう。
 しかし、その共同作業であることが直ちに作家の創造性に疑問符を投げかけるものでないことは当然のことであると私は思う。
 それは、作家の中にあって未だ見えないものをいかにより良い「表現」として読者=観客の前に引き出すかという、そのための「作業」にほかならないからである。

 俳優と演出家の関係もまた同様の意味を持つ。

 それがどの分野であれ、アーティストが作品を創り出す過程において関わるあらゆる人々によって触発され、批評されながら、より独自性の高い表現を創り、観客に作品を届けるためのより望ましい形へと昇華させるという作業は、必要不可欠なのだ。

 美術館の学芸員の仕事は、美術作品固有の価値や作品が制作された背景などを社会的文脈のなかにきちんと位置づけ、解説しながら、鑑賞者のもとにより望ましい形で届けることをミッションとするものだろう。そのために展覧会場の配置や構成に苦心し、図録やパンフレットのなかに書く言葉を選ぶのだ。いかなる広報媒体を選び、そこでどのように作品の魅力を提示し、観客の関心を喚起するかという戦略もまた重要な仕事である。

 同じ意味において、舞台芸術の制作者もまた、その作品が創られた意義や上演することの社会的な意味を観客の前に示すことで劇場に足を運んでもらわなければならない。
 もし創り手の言葉が未成熟で、そのままでは無用な誤解を与え、観客のもとにきちんと伝わらないと思われた場合、それを正していくのは制作者としての責務である。

 あらゆる表現=作品は、社会的関係性の中で生成され創造される。
 その制作過程に関わるあらゆる人は、どのような形であれその作品に影響を及ぼし得るし、そうである以上、その作品がもたらす社会的な波紋や批判に対しても真摯に向き合い、責任を持たなければならないのだ。
 アート作品が、時に社会的常識に異議を唱え、まったく新しい視点を提示すること、さらには権力者に徹底的な痛罵を浴びせさえすることは自明のことだ。アートとはそうしたものだからである。
 しかし、健全な市民の営みを揶揄したり、無用に傷つけ、否定したりすることには留保条件をつけなければならないのではないか。

 アーティストの言葉だからということでそれを無自覚なまま放置し、批判をシャットアウトしようとすること、対話の道を閉ざしてしまうことは制作者としての職務放棄であるとさえ感じる。

 政治的中立の確保や「アームズ・レングスの原則」遵守は当然のこととして、創造の過程であらゆる声に耳を傾け、回路を開いていくことこそがこれからのアーティストには求められるのではないか。
 独りよがりの表現者は、結局それなりのものしか得ることはできないだろうと思うのだ。