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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

虚と実

2009-03-17 | 文化政策
 米国の美術館、博物館などのミュージアム数は現在およそ1万7千500といわれる。ほとんどの施設を非営利の民間法人が設立・運営している。
 収入の基盤となるのが個人、企業、団体からの寄付であり、運営費のおよそ35%を賄っている。寄付集め専門の職員をかかえる施設も多いとのこと。

 そうしたなか、金融危機後の急速な景気悪化を受けて寄付金が大幅な減少となり、多くの美術館が深刻な運営難に陥っていると報道されている。
 施設によっては、スタッフの大幅な解雇やコレクションの売却までも浮上しているそうで、米国博物館協会では、「公共性の高い美術品の売却は美術館の倫理に反する」との反対声明を出すなど、関係者は必死の戦いを強いられている。

 2月4日、東京芸術劇場で開催された国際シンポジウム「今日の文化を再考する」では、著書「超大国アメリカの文化力」の邦訳が刊行されたばかりの仏の社会学者フレデリック・マルテル氏を招き、巨大な資金力を武器にして文化帝国主義とも揶揄されがちな米国文化のシステムについて話を聞いたばかりだが、「100年に一度」ともいわれる経済不況の津波の中で、そのシステムはどのように変化しようとしているのか。

 ある宴席でのこと、お世話になっているS大学のG教授に今般の経済危機が文化政策に及ぼす影響について訊ねたところ「今度の危機は古い経済システムが壊れようとしているのであって、未来のシステムである文化政策に影響はない」との力強いお言葉。でもそれはいささかお酒も入ってテンションが相当にハイになってからのご託宣であり、心配性の私は気が休まらない。

 さて、また別の宴席でのこと。時には敵対する関係にありながら、その眼力には尊敬の念を抱いているある方と話をした。その方いわく、自分は文化には門外漢であるというのだが・・・
 「虚実というくくり方をするならば、文化は虚業に過ぎないのではないか。大半の一般大衆は実業しか信用しないだろう。小さな政府にしろ、大きな政府にしろ、虚でしかないものに税金を投じるべきではない。そうした声のあるなか、虚に過ぎないものを実のあるものと信じさせるために文化政策の担い手たちは、文化がこんなにも生活に役立つものであるとか、経済力を喚起するとか、街に輝きをもたらすとか、言葉を尽くして実と結びつけるよう懸命に取り繕っているのではないか」

 これに対してどう反論しよう。

 経営コンサルタントの堀紘一氏がある雑誌でこんなことを言っている。
 「世界中の人が汗水たらして働いて稼ぐGDPは約5千兆円に過ぎない。世界第2位の経済大国といわれる日本のGDPでも約5百兆円しかない。しかし実需に結びつかないヘッジファンドなどが動かしている資金は、日本のGDPの10倍以上の6千兆円もある。だけど実際には6千兆円なんて金は、どこにも存在していない・・・」
 
 経済こそ「虚」あるいは「幻想」に過ぎないのではないだろうか、と悔し紛れに私は口走る。

 何を虚とし、何を実と信じるのか、それは人が皆それぞれに抱く信仰のようなものなのではないか。
私たちが本当に見出すべき「価値」はそうしたところにはないはずなのだ。

 米国のある美術館では、多くの観覧者や観光客を引き付けるために展示室を削ってショップや高級レストランを誘致したり、寄贈者となる金持ちの未亡人の歓心を買うための企画や寄付金を原資とした投資に憂き身をやつし、奔走することもあるという。
 それがほんの一部の極端な例にすぎないにしても、報道にあったような現下の米国における美術館・博物館の運営の危機が、そうした虚飾をそぎ落とし、旧来の文化システムを破壊して、芸術作品が本来的に有する価値や存在意義を顕わにする役割を果たすことになるのであれば、それは逆説的な意味で歓迎すべきことと言えなくはないように思える。