seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

壁と卵 アートの力

2009-03-06 | 雑感
 作家の村上春樹がイスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞し、その記念講演で、パレスティナ自治区ガザ地区を攻撃したイスラエル軍を批判したことはすでに大きなニュースとして報道されている。
 この受賞そのものに批判はあって、ムラカミは辞退すべきだったとの声も根強い。
 しかし、辞退することは簡単ではあっても何も生み出さない。その地に赴き、肉声で語ることのほうがはるかに大きな勇気を要することだったろうと思う。

 その時の講演の全文が毎日新聞の2日、3日付夕刊に掲載されている。
 村上氏は「壁と卵」の隠喩を使い、小説家である自らは「卵」である「武器を持たない市民」の側に立つと語る。私たちは一人ひとりが卵であり、世界でたった一つの掛け替えのない魂が、壊れやすい殻に入っているというのだ。
 村上氏が小説を書く理由はただ一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることであり、物語を作ることによって、個人の独自性を明らかにする努力を続けることだというのだ。
 だからこそ彼は「体制=ザ・システム」と呼ばれる壁を乗り越え、何とかして壁の向こうにいる人々の心に言葉を伝えようとしたのだろう。

 これは現実を見ないナイーブな楽観主義に過ぎないのだろうか。
 そうではないだろう。システムの中に立てこもり、壁を高くして身を潜めることのほうが安全であるに違いないからだ。しかし、システムから発せられる言葉は人々の心には響かない。
 私たちは、壁にできたわずかな隙間やひび割れの間からでも何とかして相手側の心に浸透し、響き合う言葉を見つけ出さなければならない。
 そうしたしなやかな強さを引き出し、多様な価値観や視点を提示しながら、相互に尊重しあうための対話の回路を開こうとするのがアートなのではないだろうか。
 
 5日付の日本経済新聞の「経済教室」に文化庁の青木保長官が寄稿している。その一部を引用させていただく。
 「現代日本の文化には日本社会が抱え込んだ停滞を打ち破るような力がある。
 それらに共通するのは地域社会や個人の生き方も含めて今日のローカルな場に創造性の根拠を置きながら、そこから発するメッセージが極めてグローバルに訴える力を潜めていることだ。グローバルな画一性を求めて伸展してきた市場経済の展開の仕方とは対照的に、個人や地域に場を設定してのローカルでグローバルな発信に特質がある。」

 政治体制にしても市場経済にしても硬直したシステムは壁をつくり、他を排除しようとする。システムがシステムそのものを守ることを自己目的化してしまうのだ。
 だからこそ、そうした壁を突き崩し、打ち破るためにも、私たちは常に個人一人ひとりの「卵」を大切にし、ローカルな場に根拠を置きながらメッセージを発し続ける必要があるのだろう。