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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

4丁目のワーニャ

2009-03-02 | 演劇
 2月28日、東池袋4丁目の劇場「あうるすぽっと」でチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を観た。演出:山崎清介、出演は木場勝巳、小須田康人、柴田義之、伊沢磨紀、松本紀保、楠侑子ほか。
 マイケル・フレインの英訳をもとに小田島雄志が翻訳したものを、さらに設定に手を加え、マリーナとテレーギンの役を合体させたりしているから、きちんとテキストにあたっていない私には演出意図の詳細は分からないのだが、ことさらに奇を衒わず正攻法での舞台化という印象だ。
 しかし、翻訳はある種の批評行為であるから、二重に翻訳というフィルターを経た原作との距離感にはそれなりの意味があるはずなのである。これについてはいつかじっくり考えてみたいと思う。

 これまでそれほど多くのチェーホフ劇を観ているわけではないのだが、いつも日本語による上演の難しさというものを感じてしまう。それはなぜなのだろう。

 チェーホフ劇のエッセンスを感じようとすれば、映画になってしまうけれど、ニキータ・ミハルコフが監督した「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」に勝るものはない。
 初公開は1980年だったと思うが、三百人劇場で観た衝撃はいまも記憶に残っている。
 チェーホフの大学時代の戯曲「プラトーノフ」に「地主屋敷で」「文学教師」「三年」「わが人生」などの短篇のモチーフを加えて映画化したものだが、いまやチェーホフの小説を読むときはもちろん、戯曲を読むときもあの映画の雰囲気がいつも甦ってしまい、逆に困ってしまうくらいだが、すでに30年も昔の映画を凌駕する作品が生まれないことのほうが問題だろう。
 それくらい当時32歳のミハルコフの視点=演出は現代的だったのだ。
 プラトーノフを演じたのはモスクワ芸術座のアレクサンドル・カリャーギンだが、彼のワーニャをぜひ観てみたいとも思う。

 一方、ワーニャの映画で忘れられないのが、ルイ・マル監督の遺作となった「42丁目のワーニャ」である。
 アンドレ・グレゴリー演出によるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の通し稽古を、稽古のままフィルムに納めた一種の演劇ドキュメンタリーである。
 劇作家で映画監督のデイヴィッド・マメットが脚色した台本を用いて、89年から延べ4年にもわたってリハーサルが続けられたものだが、正式の舞台公演はされていない。
 マルは91年にこの通し稽古を見て映画化を思い立ち、94年5月に実現したと記録にある。
 この映画で特筆すべきは、演技者たちの自然さである。稽古場にやってきた俳優たちが挨拶を交わし、雑談をしている。ふと気がつくといつの間にか芝居は始まっていて、映画の中で通し稽古を観ている観客と同様に、映画を観ている私たちもワーニャの世界にいる。
 この自然さ、演技の自在で自由であるさまはマジックのようでさえあるが、劇は損なわれていない。これこそがチェーホフが望んでいた演技であるように思えてしまう。

 さて、今回のワーニャであるが、配役のバランスがとれていないという印象が残ってしまう。木場勝巳の演技が強すぎる、あるいは相対的に周りが弱いとも言えるだろう。
 松本紀保のエレーナは端整すぎて、屈折した部分が見えないために喜劇にも悲劇にもなりえていない。
 エレーナはソーニャがアーストロフを好いていることを知りながら彼に近づき、アーストロフもワーニャがエレーナに恋していることを知りながら彼女に言い寄る。
 しかも二人は愛などというものを本気では信じていないはずなのだ。しかし、舞台上の演技はあまりに真っ直ぐであり過ぎる。
 言い表された言葉と内面の劇は異なっているというチェーホフの意図は達成されないままだ。

 「42丁目のワーニャ」でエレーナを演じたジュリアン・ムーアは、ワーニャに言い寄られ、それをやさしく乱れて受け入れると見せながら一線を越えそうな瞬間に激しく拒絶するという演技が印象に強く残る。説得力のある芝居だった。

 「42丁目のワーニャ」はビデオでも持っていたのだが、ある人に貸したまま返ってこない。いまは誰の手元にあるのだろうか。
 そんなことを考えていたら、今月のWOWOWで放映されるようだ。興味のある方には是非ご覧いただきたい。