ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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『日本沈没』

2020-05-22 17:16:09 | 映画


今回は、映画記事です。

映画カテゴリーでは、前回『ゴジラVSキングギドラ』について書きましたが、その冒頭に登場する深海調査艇のミニチュアが、『日本沈没』に登場する「わだつみ」と同じものだということを書きました。
せっかく「わだつみ」が出てきたついでなので、今回は、このディザスター大作について書こうと思います。

 

公開は、1973年。2006年にリメイク版が公開されていますが、ここで紹介するのは旧作のほうです。

原作は、日本SF界の巨匠、小松左京。

東宝の特撮映画ということで、制作・田中友幸、音楽・佐藤勝と、ゴジラシリーズに関わった人たちが少なからずからんでいます。
なかでも、特撮という観点で注目されるのは、中野昭慶特技監督。この方は、『ゴジラ対ヘドラ』から84年版『ゴジラ』にいたるまでのゴジラ作品で特技監督をつとめていました。
その特撮が、迫真のリアリティを出しています。
特に中盤、東京が大震災に襲われる一連のシーンは、残酷なまでにリアルです。70年代の技術でここまでのことができたなんだなあと驚かされます。

主演は、藤岡弘さん。
初代仮面ライダーで有名な人ですが、この作品では、沈没していく日本でなんとか人々を救おうと奮闘する潜水士を演じています。
その他キャストの一覧をみると、ここでもゴジラシリーズと重なる人がいて、村井国夫さんや小林桂樹さんは、84年版『ゴジラ』にも登場します。また、昭和ゴジラのほぼすべてでゴジラのスーツアクターをつとめた中島春雄さんも出演。また、原作者の小松左京や、制作の田中友幸もチョイ役で登場し、さらに雑誌『ニュートン』編集長だった竹内均が本人役で出てきます。竹内さんは、84年版『ゴジラ』で特別スタッフに名を連ねていますが、こうしてみてくると、84年版『ゴジラ』と重なってくる部分が結構あるようです。両作とも、東宝が力を入れいていたからということなんでしょう。

一応ストーリーを説明……といきたいところですが、実際のところ説明するほど複雑な話でもありません。タイトル通りに日本が沈没するということで、その破局的な事態に人々がどう対応するかということが描かれます。
2006年のリメイク版では日本の完全な沈没を阻止しようという試みが描かれますが、旧版ではそんなことは考慮もされません。地質学的な現象の前に、人間はなすすべもないのです。
日本列島は遠くないうちに消滅してしまう。そのとき、祖国を失った日本人はどうなるのか――小松左京がこの作品を構想した出発点はそこにあったといいます。

で、この小説が大ヒットし、映画化され、映画もヒットしました。

破滅的な災害の前にも、絶望することなく、とにかく一人でも多くの人を助けようとする姿が、観衆の心を打ったのでしょう。そにれよって、この作品は日本映画史に残る名作となったのです。

しかし、こういうディザスターものは、自分のよってたつ足もとがしっかりしていてこそ楽しめるものでしょう。

映画ですさまじいい破壊を観たけど、映画が終われば日常が待っている――そうであってこそ、ディザスターを楽しめるわけです。
そういう意味からすると、いまの時期に観たら、無気味な恐怖に襲われてしまい、あまり「楽しめる」映画ではないかもしれません。






ベートーベンのために

2020-05-20 15:54:23 | 音楽批評


今回は、音楽記事です。

以前、チャック・ベリーの Roll Over Beethoven についての記事を書きました。

そこでは、ベートーベンをぶっ飛ばせということだったわけですが……ただぶっ飛ばされるだけでは気の毒なんで、今日はベートーベンをちょっと弁護しておきたいと思います。

ベートーベンといったら、その名前を知らない人はいないでしょう。

クラシックの大物で、音楽史に大きな足跡を残す巨人です。それが一つの権威のようになっているわけで……そういう権威をひっくり返そうというのが、チャック・ベリーのいわんとするところでした。

しかし実は、バッハやベートーベンといった人たちは、それぞれの時代においてロックだったんだと私は思ってます。

たとえばバッハはバロック音楽を代表する音楽家ですが、バロック音楽においては、それまで使用が避けられてきた不協和音的な音が使われるようになります。その最たるものは、減五度でしょう。いまでこそごく普通に使われますが、ルネサンス期ぐらいまでのヨーロッパでは、これは「悪魔の音程」と呼ばれ、使ってはならないとされていたのです。

そのあたりは、バッハがそれをやり始めたのかというのは私にはちょっとわからないんですが……ベートーベンに関していうと、音楽的になかなか革新的な人だったようです。

聞くところによると、ドラムで裏拍をとる、あの「ズン、タン、ズン、タン」というリズムを最初にやったのはベートーベンだといいます。

音楽には地層があります。

かつては、六つの音しか使わず、ハモリもコードもなく、移調も転調もなく、音符も二種類しかないというような時代がありました。そこから現代の複雑な音楽にいたるまで、何千年という時間をかけて表現の幅が広がってきたわけです。減五度の使用や、裏拍をとるリズムなと、いまの音楽では当たり前になっていることも、その長い歴史の中で誰かが新しくはじめたことであり、それをはじめた当初は、たぶん守旧派から批判されたにちがいないのです。あんなのは音楽じゃない、と。そして、そういわれることこそがロックなんだと私は思ってます。

そういう意味では、バッハもベートーベンもロックなんです。

しかしそれが、いつしか本人のあずかり知らないところで、一つの権威になっていく。そうすると、それをまた誰かが旧体制として打破する。そういう新陳代謝の繰り返しで表現の幅が広がっていく。それは、ドクサ、パラドクサ、メタドクサというやつかもしれません。権威化、硬直化してしまったドクサに対してパラドクサを提示することが、ロックなんです。
ロックとは新陳代謝である――その観点にたてば、ベートーベンもロックであり、そのベートーベンをぶっ飛ばせと歌ったチャック・ベリーも等しくロックといえます。

ベートーベンに関していえば、ナポレオンと「エロイカ」のエピソードなんかはなかなかロックなんじゃないかとも思います。

パンクとはスタイルではなくアティチュードだ、とジョー・ストラマーはいいました。
そういう言い方でいうと、ロックとは音楽形式ではなく生き様なんだともいえるんではないか。だとしたら、ベートーベンもまたロックなのです。




検察庁法改正案、今国会での成立見送りへ

2020-05-18 22:20:13 | 時事



検察庁法改正案が大きな議論を呼んでいます。

総理大臣が検事の生殺与奪を握ることで、恣意的な運用を招くことはないのか、という点と、そもそもいまの時点で恣意的な運用が進んでいるのではないかということで、大きな問題になりました。多くの著名人が懸念の声をあげてもいます。「どのような政党を支持するのか、どのような政策に賛同するのかという以前の問題で、根本のルールを揺るがしかねないアクションだと感じています。」といきものがかりの水野良樹さんがツイートして話題になってましたが、まさにこれは、もう右とか左とか関係なく、組織統治のあり方として問題があるといわざるをえないでしょう。
現時点がどうかはひとまず置いておくとしても、将来それを悪用する人物が出てこないかという懸念があります。その未来のことについて「そんなことはありえない」と断言するのは、無責任というものです。検事、弁護士、裁判官と法曹に携わる三職種のすべてから反対の声が出るのも、当然でしょう。
この批判の高まりを受けて、政府与党は、ひとまず先週末の衆院採決を見送りました。そして、今日の報道によれば、今国会での成立を断念したということです。
さすがに、このコロナ禍の最中に、反対意見が圧倒的に多い法案を強行採決するのははばかられるということでしょうか。さらにいうと、今後日本を襲うであろう経済的苦境を考えれば、ここで政治資源を大きく消費してしまうともう回復が難しくなるということも頭にあるかもしれません。
いずれにせよ、世論の批判が高まることによって問題のある法案が葬られるというのは、よいことです。
芸能人が声をあげたことについて、裏に黒幕がいるという人もいますが、そうではないでしょう。これまでにも、普段だったら政治的な問題に口出ししないであろうような人たちが、相次いで安倍政権に抗議の声をあげてきました。それだけ、いまの政権で行われていることが目に余る、だから黙っていられないということなんです。今回の検察庁法改正案は、いくらなんでもそれはおかしいだろうというものだった。だから、みな一斉に声をあげたということだと思います。
ここはきっちり、今国会での成立見送りといわずに、廃案にまでもっていきたいところです。




ブログ開設1000日

2020-05-16 23:26:22 | 日記



本日、ブログ開設から1000日目を迎えました。

あんまりブログなんかには向いていない性分ですが、よくここまでやってきたものだと自分で自分をほめたい気持ちです。
相変わらずなんのブログなのかよくわからない雑然とした感じでやってますが……1000日達成を機に、また新しい試みをはじめようかと思ってます。
どうぞこれからもよろしくお願いします。






39県で緊急事態宣言解除

2020-05-14 19:29:12 | 時事


39の県で、緊急事態宣言が解除されることになりました。

今回解除される中には、私の住む福岡県も入っています。
福岡は、一時かなりの勢いで感染確認数が増えてたんですが、最近はかなりおさまってきていました。再拡大の懸念はありますが、いつまでもいまの状態を続けているわけにもいかないので、段階的に社会活動を再開していくことは必要でしょう。

ただそこで、これまで検査が抑制されてきたことが問題になります。

日本では新型コロナの検査数が少ないということがたびたび指摘されていて、検査数が半ば意図的に抑制されているということは、もうほぼ公然と認められている事実でしょう。検査数を増やして軽症者まで網にかけてしまうと医療機関が対処しきれずに医療崩壊を起こすからだ……というのが、検査抑制を正当化する論拠でした。

しかし、そうなると、判断の指標にするべき数字があてにならないという問題が出てきます。

感染の現状をとらえたり、ある対策の効果を評価したり、今後の方針を決定したりするときには、感染確認数の数字をもとに計算した指標を使うことになるわけですが、そのもとになる数字がそもそも偽りの数字だということが最初からわかってるわけです。これはかなり致命的なことじゃないでしょうか。

検査を拡大するべきか、抑制していたほうがいいのか――というのは、ツイッターなんかでさんざん議論になっていましたが、事態がこう進展してくると、検査抑制の方針が誤りだったことはあきらかだと思います。
この考え方は、クラスター対策に重点を置くやり方とセットになっていたと思うんですが、クラスター対策というやり方は結局失敗に終わったわけです。失敗に終わったがために、現状でとりうるもっともハードな対策をとらなければならなくなったのが、この一か月ほどの緊急事態宣言です。点と線だけを追うという考え方が実質的に破たんし、感染を面で追わなければならなくなった。そうなると、これまで検査を抑制してきたことが大きな問題になります。考え方を転換しても、もう今さら感染を面でとらえることは不可能になってしまっているのです。結果、いつわりの数字をもとにして現状を分析し、対策をたてなければならなくなりました。真っ暗な洞窟の中を、ペンライトだけを頼りにして進んでいくようなものです。

そしてもっとも問題なのは、収束時期のとらえようもなくなったことです。
国内問題としてだけならまだしも、人の行き来を考えると、国際的な問題も考えなければなりません。
もとになる数字がまったくあてにならないなかで「収束しました」といっても、海外の国々はそれを信用してくれるのか。海外の観光客は戻ってくるのか、オリンピックなんてやれるのか……そういったことを考えると、緊急事態宣言解除といっても、手放しで喜ぶことはできません。むしろ、この国におけるコロナ禍の影響は、これからさらに深刻になっていくのではないかと懸念されるのです。