★ベトナム・ハノイは「こんなとこ」★

コネなし、金なし、能力なし。50を過ぎて、単身ハノイで会社を作り10年目。毎日「こんなふうに」すごしています。

ベトナムハノイの「年末年始その6」(5歳友人故郷訪問、こんな場所に住みたい)

2023-01-22 22:45:32 | ベトナム・ハノイ

 楽しい年末の一晩を過ごさせていただいた翌日、ようやくこのお宅の全容が明らかになった。

昨夜19:30に着いた時には既に闇に包まれていたので、周りがどうなっているのか?お宅の全容はわからなかった。

「母上の言葉通り」男氏3名は6時に起き2台のバイクに分乗し「田舎の年末の【市場】」に出かけた。

田舎道は舗装もされていないが「雰囲気のある田舎道を走った」こんな経験した日本人は貴重だろう。

午前6時過ぎにもかかわらず「田舎の市場はにぎわっていた」テト用品も数多く、いつもより高級な

果物やお菓子が多く売られていた。そこで「必要な物をお父様が」そして「妹の彼氏が高級な果物を買った」

お金を負担させてくださいといったが受け取らなかった。そしてその市場唯一であろう「レストラン」で

3人で朝食(ブン)を食べた。そこでは「お父様」は会う人すべてが知り合いらしく

恐らくは年末のあいさつをし、私たちを紹介してくれた。そして家に帰ると「お父様が家やその周りを

案内してくれた」眺めや環境が素晴らしく、空気もきれいで美味しかった。正直もともと群馬の田舎で育った自分には

うらやましく、住みたい場所に思えた。その後も近所の「親類縁者」宅に連れて行ってくれて、その親戚とも

ビールを飲んでお茶を飲んで「楽しい時間を過ごした」・・・

 夢のような時間はあっという間に過ぎてしまい。いよいよ帰る時間になってしまった。

お父さんやお母さんは「持てないほどのお土産を持たせてくれた」 思いがけない素晴らしい年末の時間だった。

感謝である。チャーターしたタクシーが迎えに来た。名残惜しいがハノイに帰らねばならない。

心づくしの数々に本当に感謝します。

 在住十一年、ベトナムの田舎で「しかもテトまじかの特別な時期」に快く受け入れて頂いた

皆さんに感謝します。そしてこのような素晴らしい出会いのきっかけになった「5歳友人」に感謝します。

又、ハノイで会いましょう。・・・・車に乗り「あッという間の2日間」を思い出しながら・・・

「こんな土地で暮らしたら気持ちよく過ごせるだろうな?」と、そんなことを考えて・・・・知らない間に

深い眠りについていた。

ベトナム田舎のテトまじかの市場の様子。左の屋台ではこの地方独特の形(円筒形)のバインチュンを売っている。

家の全体。立派な門構え。そしてつくりは少し変わっている。1階の奥は「斜面に浮いた構造になっている」

1回に見える場所は実は2階。1階(地下)には広い2部屋がある。

2階から奥に下ったところには「牛小屋や豚小屋」があり、その奥はこの写真のように

広い畑になっている。ここではたくさんの種類の野菜が栽培されており、ほぼ毎日の

食材は賄える。その奥には広い田んぼもあり野菜や卵などは完全に自給自足できる。

庭には「各種の果物の木」(スターフルーツ、バナナ、ミッツ、等々)が植えられており日常収穫ができる。

5歳友人の母上の妹さんの彼氏、ベトナム人の男性は「このような家事が普通にできる」

自分は5歳友人お母上に「ベトナム野菜名、下処理の仕方、料理方法」などを教わったが

まだまだだ、しかし彼は誰にも教わらずにそれらができる。小さいころから親から教わっているのだろう。

この家から見える田んぼの向こうの「お墓」。自分の田舎もこのように

自宅の近くの田んぼや畑の近くに「一族のお墓」があったことを思い出した。

お墓だからと言う「怖さやさみしさ」は無い墓地だと感じた。 亡くなった祖先も

こうして自宅を見守れる場所を考えての事なのだろう?

帰り際には「お父様」より数々のお土産を頂いた。昔、母が同じように

持ちきれないようなお土産を準備してくれたことを思い出した。

(庭でとれたスターフルーツ、正月のために準備した「ゆでた鶏」

待望の「この家族製作のバインチュン」そしてさっき畑でとった

新鮮野菜。 等々 本当に感謝です。

したくてもできない「貴重な経験をさせて頂いた」

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナムハノイの「年末年始その5」(5歳友人故郷訪問)

2023-01-22 20:46:03 | ベトナム・ハノイ

 5歳友人故郷に着いたのは19:30 未だ「荷物者は付いていない」

実は自分はこの家の近くとお宅には1度、「ツーリングついでのデリバリー」で3,4回来ているのだ。

もうすっかり暗くなったお宅に付いたが全く記憶とは異なっていた。

荷物を下ろした瞬間、5歳友人の「祖父母」(と言っても自分と同じ年代か自分が年上かもしれない?)

から「さあさあこちらへ」と案内されベトナムスタイルの「床に敷かれた茣蓙の上に車座に座り宴会が始まってしまった」

「妹の彼氏は、明日帰りましょう」・・・「こんな状況で帰れるわけもなく」 少し予想はしてたが

うれしい誤算、とありがたく泊まらせていただくことにした。

ベトナムでは年末から「バインチュン」(正月用のお餅)

を食べるそうだ、実はここの家の「バインチュン」もう3年も頂いている。お世辞抜きで「社員の家からなど

たくさんのバインチュンを頂いたが」ここのバインチュンが一番おいしい。

5歳友人の母上のお父様(ややこしいのでお父様と呼ぶ)と妹さんの彼氏と自分の3人で「自家製ジオ(焼酎)」が

幾度となく酌み交わされる。食べたことの無い美味しい料理が並び、酒も進むが、つまみの一つに

「このバインチュンを油でこんがり揚げ焼いた」が出てきてしまった。我慢できるわけがない。

3つも食べてしまい、お酒は終了した。その後ベトナムでは通常の「ベトナム特有の木造りのソファー」で

お茶を飲み、話に花が咲く。近所の家ではどういうわけか、電飾し「大音量でカラオケをやっている」

特別な家かと思ったがそうでもないようだ、多くの家が同じだった。ここでは?・・・と思ったら

母上のお兄様が「歌い出した」・・・「お父様もノリノリに」・・・「妹さんの彼氏も同様に」・・・

日本人の私にも「予想通りマイクが渡された」・・・ベトナム在住11年、準備はできている。

会社パーティーで鍛えた「ベトナムカラオケ」を歌い「田舎の家族を驚かせることもできた」

楽しい年末の宴会だった。

 驚いたのは、街灯も無いベトナムの田舎はテトまじかになると「家に電飾を施し」日本でやったら即苦情なくらい

大音量で家族カラオケを行うのだ。そして来客があればそれが言葉のわからない外国人でも

精一杯もてなしてくれるのだ。本当に「気持ちの良い人々だ」

カラオケもたくさん歌い、夜も更けてきた。どこで寝るかもわからないまま・・・

すると母上から「今日は男は男同志」「女は女同志」寝ましょうねということで、

「お父様、妹さんの彼氏、そして自分」の3名が同じベッドで「母上、妹さん、そして母上のお母様、そして5歳友人」

が1つのベッドに、そして愛上夫婦と2名の子供が1つのベッドに・・・

その時「母上から厳しい言葉が」、男氏3名は明日3人で6時に市場へ買い物に行ってきてくださいね・・・」と

ただ「Toi hieu roi ](わかりました)と答え、深い眠りについたのだった。

一族揃っての宴会風景、これは翌日の昼食の風景。夕食はあまりにも突然で写真に残せなかった。

それでも雰囲気は出ている。床に敷いた茣蓙の上でみんなで車座になってワイワイガヤガヤ楽しく食事をする。

11年間、いいや自分の家庭の事情で「一人で食べることが圧倒的に多かった自分」にとっては、すごく楽しく

楽しい食事だった。しかもベトナムの田舎での食事だったことは自分の人生でも貴重な一ページだった。

ここのご家庭のリビングだ。ベトナム特産の猛省の堅い椅子ががあり、家の中心には「祭壇」が設けられる。

光栄なことに送ったお土産が祭壇に飾られていた。食事のあと、ここに座りやがて大音量でのカラオケ大会に

移行した。夜も更け、それぞれに部屋に撤収し眠りについた。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナムハノイの「年末年始その4」(思いがけない5歳友人祖父母【故郷】訪問)

2023-01-22 20:21:59 | ベトナム・ハノイ

 年末で押し詰まった12月30日、5歳友人宅はごったがえしていた。

ハノイで「ブンカーのお店」を開店した「5歳友人のおじさん夫婦、そして2人の子供たち」

そして「5歳友人とその母上、そしてその妹さん、そしてその彼氏」合計8名で帰省準備を始めたが

それでも間に合わず「お呼びがかかった」 (子供たちはそんなことも知らずに騒ぎまわっている)

ここの家では年末忙しかったために「掃除などもできていなく、荷物整理をしながら掃除もするといった荒業を行っていた」

スーツケース大が2つ、スーツケース小が1つ

その他「お土産5-6個」思いビールもある。その他もろもろ、とてもCX8では運べないと思った。

 そんな時「母上から」故郷に来ませんか?とのお誘い。思いがけないお誘いだ?

日本の常識では「こんな年末に、家族そろっての年末、忙しい時期にお邪魔するのは「失礼である旨と絶えたが?」

「大丈夫ですよ、妹の彼氏も来るから」との事、「妹さんの彼とはもう周知の仲である」彼からも「一緒に行きましょう」

と誘われ「急遽ご一緒させてもらうことになった」それでも一応「部外者2名は日帰りの予定であった」しか出発したのは

既に16:30になっていた。 

そして自分は急いで準備して合流した。結局この莫大な荷物は

私を含め大人6名、子供3名と定員ギリギリになり、乗せることが出来ず別にタクシーを頼んで荷物だけを

運んでもらうことになった。

タクシーに載せきれない荷物もCX8に載せたため3列目まで荷物でぎっしり、自分はそこになんとかもぐりこみ

5歳友人、ハノイを出発した。

1列目に5歳友人と母上、そして母上の兄が運転

2列目、運転手の奥様、そして妹さんとその彼氏、そして2名の子供たち

3列目 自分が荷物に埋もれて座っている。

さてさてどんなことになるやら?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナムハノイの「年末年始その2」(散歩中の思わぬ出会い)

2023-01-22 17:11:09 | ベトナム・ハノイ

 年末の「ブンカー店での夕食の待ち時間」周辺を散歩していた時の事。

裏路地の出口で「見たことのある自動車」があった! 急に昔のことを思い出した。

 あれは今から25年前の事、自分はそのころ世界最大の「日本の大手金型メーカの技術者」として働いていた。

その会社は「アメリカ2か所、メキシコ2か所、イギリス、中国3か所、台湾、等々に工場や拠点社員1200名」を持ち

そこかしこに「普通に海外出張を頻繁に命じられる会社だった」じぶんもこの会社で数多くの海外出張を

命じられ、良くも悪くも「グローバル感覚を身に着けた」その中で自分が一番多くかかわったのは「韓国自動車メーカへの

技術指導」と「実業務」を担当した物だった。そのころ韓国では「まともな自動車はようやくでき始めたころで」

1か月に2回、3-4日づつ技術指導と実業務(その自動車メーカが技術指導を条件に自分の働く金型メーカに大量の発注をしたための

連続訪韓)だった。飛行回数も気づけば200回を超えていた。

 そのころ開発した車が25年の日々を超え「ここベトナムで発見したのである」

(頑張った開発だが、そのころはあまり売れなかったのを覚えている、そしてその自動車会社は

残念ながら経営危機⇒アメリカGMに身売り⇒倒産と言う道をたどった)

技術指導したのは「今目の前にあるこの車の開発業務だった」そしてその後の実業務でも訪韓しながら

一緒に開発を行い、完成まで面倒を見たのだ。 「開発名J200](車種名;NUVIRA と LEGANGYAだった)

この自動車会社のプッピョンでの開発、そして移動したクンサンでの開発業務、思い出は尽きない

その「上級車種のレガンジャ」が今目の前にあるのだ。まじまじと見て、そして「思わず写真を撮ってしまった」

 人生とはつくづくわからないものだ。25年前2-3年間携わった「韓国車」が20年以上の時をこえて

そのころは「思いもしなかったここベトナムで再会することなど???」

ベトナムの年末、20年以上前のあの頃のことをお思い、「なつかしさに浸った」・・・

「電話がなって我に返った。5歳友人母上から、どこに行ってるの?もう夕食が出来ましたよ!」

との事、そうだここはベトナム。あの頃の技術をベトナム人に教え、ベトナムが自動車を作れるようにと始めた

仕事、終盤だが「まだまだ道半ばなのだ」頑張らないと。

年末の夕方、ベトナムの地で、見知らぬ街かどで「そんなこと考えた」

開発名 J200   車名称:ヌビラ レガンジャ

25年ほど前、韓国自動車メーカで開発業務に携わった思い出の車を

年末のベトナムで発見した(思った以上にきれいな状態だ、うれしい!)

「いろんな思いが巡った」。人間とは

つくづくわからないものである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナムハノイの「年末年始その3」(ベトナム年末のお土産)

2023-01-22 17:11:09 | ベトナム・ハノイ

 旧暦12月29日年末、ベトナムではこの年末に色々とお世話になった方々に

年末のお土産を差し上げる。(日本のお歳暮のようなものだろうか?)

会社でも社員に「年末お土産を配った」

自分も「会社オフィスビルや慣例に従って少しだが頂いた」そして

自分も「本当に色々とお世話になった5歳友人宅にお土産を差し上げるべく」

色々と物色したが難しい? 仕方なくそれとなく「欲しいお土産を聴いて」妹さんの彼氏にお願いし

手配をした。お世話になった度合いから言ったら「それなりのものを送らねば」

少し気張って3,500,000VNDと言う今まで見たことが無かったような「贈り物」を選び

送ることが出来た。

本当に本年中はお世話になりました。何度食事を頂いたかわからない。

その他にも色々とおお世話になった。ありがとうございました。

知らない国で「このように親切にして頂いたことは、ベトナム在住中初めてである」

一人暮らしで「色々と不自由な生活には慣れていたが」確かに「栄養を考えた、ベトナム家庭料理」

を頂き「病気の時は食事や薬など」の世話もして頂いた。言葉には尽くせない感謝である。

ベトナムの年末、大掃除をしながら

そんなことを考えた。

お正月らしい「きれいなお土産を探すことが出来た」

こんなものでは「感謝はしきれないが」せめてものしるしである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする