数理論理教(科学教)の研究

数理論理(科学)はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか、少しでも考えてみたいと思います。人文系

朝鮮戦争とは何だったのか?戦後の思想洗脳戦争の始まり?原子力安全神話の遠因

2014-03-16 20:09:59 | 国内政治
〔以下すべて私の単なる妄想です。 詳しくは各人でお調べ下さい。〕

 〔「洗脳」と「マインドコントロール」は意味合いが違うようですが、以下では両者を区別しておりません〕
 
「朝鮮戦争」とは、日本では主に「経済特需」など経済的な側面のみが取り上げられているように思えます。平和憲法下の日本では何か「対岸の火事」であったような雰囲気さえあります。
 しかし、朝鮮半島は「日本の沖縄戦」を超える惨劇になり、まさしく「無間地獄」となりました。特に建前上の革命内戦ということにより、宗教戦争(イデオロギー戦争)の様相を帯びるようになり、夥しい数の朝鮮市民の粛清・虐殺が行なわれました。

 そして、この「思想洗脳戦争」の結果として、韓国と日本において宗教の教団類似の「反共保守思想の狂信的な団体」が意図的に作られ、共産側のオルグに対抗して、強力な教化活動を進めたようです。
 これは米国の対共産勢力に対する「世界的な思想洗脳戦の一環」として行なわれたようです。CIAなどの謀略組織も当然がかかわっていると思われます。
 
 この「反共保守思想の狂信的団体」は強力な「巨大利権集団」となり、日韓で政治的に強い影響力を持つことになったようです。そしてソ連崩壊後も、この利権組織は強固なままのようです。
 他のブログ・サイトでを見ていますと、CIAが活動資金を「麻薬取引」から得ていたとのことです。非合法活動の資金を公に予算化できないので、裏の稼業で資金を得て、反共産組織(ゲリラ・独裁右翼政権など)にばら撒いていたようです。この反共産組織には、上記の「宗教類似の狂信団体」や「保守系政党」も含まれていたのでしょうか?
 しかし「麻薬取引」とは、手っ取り早くカネになる魔法のような手段のようです。日本も満州帝国では相当手広くやっていたようです。このようなうまみを知ってしまうと、なかなか止められなくなるかもしれません。
「日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍であった。
 共産党側は、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は日本軍と国民党軍の交戦を傍観し、戦力を温存して、共産党支配地域の拡大に傾注したのである。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。
 1938年には長征時代の妻・賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。
 この時の毛沢東の主な政策は、阿片の生産である。共産党支配下で栽培しそれを連合軍に売り資金を蓄え、来るべく国民党軍との内戦に備える戦略である。(引用終わり)」
 参考:『日中戦争』児島襄著 
(この本は今から15年ほど前に読みましたが、国民党が何回も中国共産党を包囲殲滅しようとすると、恐らく共産党の挑発(謀略)により日本軍が攻撃せざるを得なくなり、国民党がそれに応戦するという図式が続いていたようです。そういう意味では、中国共産党にとって、日本軍は「救いの神」だったのかもしれません。)
 
 今では、この「思想洗脳戦」は少々中身を替えているようですが、つまり「共産ユートピア幻想」はなくなりましたが、資本主義体制に変貌した大中華帝国や資源戦略に邁進する大ロシア帝国は、かつての帝国主義国が行ったような諜報・謀略戦略の一環として洗脳戦を仕掛けているようです。かつてのような露骨な共産主義のオルグはなくなったようですが、特に大国化した中国のソフトな教化活動は、その豊富なマネーも伴い活発化しているようです。それに対抗して「反共保守の狂信団体」の存在意義も未だあるのでしょうか?しかし「反共保守の狂信団体」はあまりにも利権化し、単なる拝金集団・アンダーグラウンド集団になってしまっているようにも思えます。
 
 日本では、朝鮮戦争によってもたらされた強力な「思想洗脳戦争」により、アカ(共産又は社会主義)かクロ(保守反共)かでしか価値判断ができないようになってしまったのではないでしょうか。合理的に考えるよりも、絶えずこの二者択一の選択の問題にされてしまったような気がします。そして現在でもこの対立は鮮明のようです。

 高村薫さんが、日本の原発問題は、絶えずイデオロギーを通してしか議論されてこなかったとおっしゃっていました。まさにこの「思想洗脳戦争」の影響のことを指摘されていたのではないでしょうか。確かに朝鮮戦争でのイデオロギーによるオセロゲーム(思想洗脳による友軍化)の影響は凄まじいものがあった(夥しい粛清・虐殺を余儀なくされた)ので、それに対抗する狂信的な保守思想(教え)がどうしても必要であったのは仕方がないことかもしれません。
 しかし、原発問題(原発の純粋な科学技術的な危険性)は、「思想洗脳戦争」の後遺症によって、アカかクロか、善か悪かのように、絶えずドラマ化されて、単純化されて議論されることが多かったように思われます。そのような中では、真に技術的で合理的な議論などできませんでした。



 また『米戦時情報局が見た中国共産党の日本人洗脳工作山本武利(早稲田大学政治経済学術院教授)』20世紀メディア研究所で、秀逸な記事があります。(一部転載します)

「…捕虜となれば、自国で不名誉な扱いを受けるばかりか、原隊に帰っても、部隊指導者が彼らを見せしめに処刑することが分かって、原隊への復帰を希望しない日本兵が急増するようになった。「戦陣訓」のしばりによって、日本兵捕虜には敗戦協力しか帰国の途はないことに八路軍は気づいた。そこで敵軍工作部は反軍国主義、さらには社会主義思想注入のための再教育を捕虜に受けさせる。さらに思想改造をしたかれら捕虜を前線に送り込み始めた。」

「… 監視ネットワークが下は日本人解放連盟や共産主義者同盟の幹部から上は毛沢東の各段階に存在していた。こうした毛沢東の相互監視による洗脳化工作は他の同時期のファシストや独裁者よりも陰湿かつ厳しかったという説がある。

「…「一般の工作単位(職場)を事実上の監獄に変えてしまうというやり方は毛沢東の発想による重要な新機軸で、毛沢東は中国を統治した全期間を通じてこの方法を使いつづけた。この点においては、毛沢東はヒトラーもスターリンも遠く及ばないシステムを作り上げたといえる。すなわち、人民の中から一部を看守に仕立て、それまで同じ職場の同僚だった人々を一方は囚人、一方は看守という立場にして同じ敷地内に生活させる、というシステムである(共産中国においては、職場と住居が同じ敷地内にある場合が多かった)。このようにして、毛沢東は共に働き生活する人間どうしのあいだに大きなくさびを打ち込んだだけでなく、拷問を含む抑圧に手を染める人間の数を大幅に増やした。スターリンやヒトラーの場合、こうした目的にはおもに秘密警察のエリート(KGBやゲシュタポ)を使い、犠牲者も一般の目に触れない場所に隔離されていたが、毛沢東はこうした活動の範囲を大きく広げたのである」(『マオ』上巻)。」

「… 初期の日本兵への工作や捕虜への教育を通じて、天皇批判のプロパガンダは日本人や日本兵には絶対に避けるべきことだと中国共産党は認識した。それはアメリカ軍と同様であった。対日プロパガンダにおいて、本来なら天皇に当るところに軍国主義者を据えた。そして軍国主義者と人民を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を中国人や兵士に呼びかける心理工作を繰り返した。延安を訪れる連合国側のジャーナリストやアメリカ軍の将校に対し、共産党色を隠し、穏健な民主主義者のポーズを取った。こうした手法が5年後の毛沢東の中国支配の道をひらいた。」

「 70年間にわたり、教科書問題でも、靖国問題でも、二分法のプロパガンダが日本人に向けて断続的になされてきた。しかし人民に戦争責任がなく、むしろ被害者であるという論理は欺瞞的である。日本人民が中国侵略を支え、中国人民が文化大革命を進めたにもかかわらず、人民への追及は故意に避けられた。さらに言えば文革で4人組と人民を区分し、毛の責任を故意に無視したように、人民や天皇の戦争責任を無視し、A級戦犯のみに責任を被せた。中国侵略批判での「天皇」隠し、文革批判での「毛」隠しは、最高責任者への責任追及を避ける隠蔽的二分法である。GHQも中国共産党もその手を使ってきた。」

 それにしても中国の人心掌握術は4000年の権力闘争により洗練されたものになっているようです。
 「軍国主義者が悪かった、国民は犠牲者だった」というのは、考えてみれば本当に無責任としか言いようがないですね。
 原発公害も、「原子力マフィアが悪かった、国民は犠牲者だった」という論理は通用しませんよね。この国策原発を進めてきた年代の有権者(国民)は等しく責任があると思います。どうしてこのようなことになってしまったのか、真剣に議論しないといけないと思います。
 また違ったタイプの「洗脳思想」に染まらないために。
 

 (朝鮮戦争の概略)

1.朝鮮戦争は、当時の朝鮮の人口3000万人に対して、犠牲者・被害者が実に約500万人と言われています。戦線が南北に大きく動いたことにより(アコーディオン戦争とも言われています)、朝鮮の全土を巻き込んだ凄惨な地獄絵図となりました。

2.共産革命の名のもと、思想洗脳による異端裁判のようなむごたらしい処刑・虐殺が後を絶ちませんでした。またその反動の右翼テロや、アカ思想を抹殺・制圧するための粛清・虐殺も相次ぎました(無実の罪を着せられた例も多いようです)。戦線が大きく南北に動いたことから、占領地での双方からの粛清・虐殺は阿鼻叫喚をきわめました。
 

3.朝鮮から大量の「難民」が日本に逃れてきました。

4.日本は米国からの軍事介入要求を「平和憲法」を盾に拒みました。アメリカの若者が犠牲になっているにも拘らず、朝鮮半島全土が赤化したら日本の共産革命の内戦が勃発するのが必定だったにも拘らず、米国が押し付けた「平和憲法」を武器に、ひたすら朝鮮戦争特需(巨大な乗数効果)の恩恵のみを受け、経済的復興に邁進しました。(旧日本軍人などが密かに朝鮮戦争に加わっていたようですが)
 
〔日本は、朝鮮戦争による現韓国・米国(国連軍)の犠牲により、共産革命による内戦を避けることができました。もし朝鮮半島が北朝鮮軍(ソ連・中国軍)により完全占領されていたなら、韓国の100万人単位の難民が日本に押し寄せてきて、また日本での共産革命の本格的な内戦が始まっていたことでしょう。そうなれば日本民族同士で苛烈な殺し合いが行なわれていたかもしれません。朝鮮戦争は他人事ではなかったのです。〕
 

5.共産革命については、夢のようなユートピアと語られることもありましたが、今となっては人権侵害の最たるものの象徴のようにも思えてきます。
 マルクスが語った共産社会は、相対的剰余価値(科学技術を応用した創造的な競争から生まれる価値)の拡大にともなう有機的構成の高度化(公平な競争による効率的な社会システム)によりもたらされるものでした。言論統制や思想洗脳(偶像崇拝的な思想の強制)などによっては、創造的活動は窒息してしまいます。

6.朝鮮戦争は、米ソ中の外交ゲーム(戦争)であり、一歩間違えれば「第三次世界大戦」に突入していたかもしれないです。中国軍(義勇兵)の犠牲も多大なものでした、後半はほとんど米中戦争の様相になっていました。

 参考:『朝鮮戦争』児島襄著 中公文庫、『講和条約』児島襄著 中公文庫
 
 
 Wikipedia「朝鮮戦争」から転載します。< >は私のコメントです。
「朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争]」

「1945年8月15日、第二次世界大戦において日本は連合国に降伏したが、その時点で日本が併合していた朝鮮半島北部に連合国の1国のソ連軍(赤軍)が侵攻中であり、日本の降伏後も進軍を続けていた。同じく連合国の1国で反共主義を掲げていたアメリカは、ソ連の急速な進軍で朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。
 その後、米ソの対立を背景に南部は大韓民国、北部は北朝鮮として建国。南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、韓国軍主力が半島南部に移動していた機を見て、防御が手薄となっていた国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切った。」

「ソ連占領下の北半部では、1946年2月8日金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた暫定統治機関としての北朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月20日に北朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行して共産主義国家設立への道を歩み出した。これに対抗して李承晩は、南半部のみで早期の国家設立とソ連の排斥を主張し始めた(6月3日の「井邑発言」)。金九などはこれに反発して離反した。
 そのころ国内はインフレが進行し失業者が急増。5月には水害と疫病(コレラ)が発生し1万人規模で死者が出た。8月に入ると食料も不足し、各地で暴動が発生する。軍政庁は韓国民主党と結んで左派ともども武力で暴動鎮圧を図ったため市民が一斉に反発した。9月にはゼネスト発生。10月には全国で230万人が参加する騒乱となった(大邱10月事件)。軍政庁は戒厳令を敷き鎮圧したが、このことがアメリカ軍政への支持を決定的に失わせた。軍政庁は一連の騒動の責任を左派、特に朝鮮共産党から11月に結成した南朝鮮労働党に求め、朴憲永などは弾圧を避けて北へ逃れた」

「1947年3月12日、トルーマン大統領は、イギリスがギリシャ内戦への関与から撤退した後にアメリカが引き継ぎ、これを機に世界的な反共活動を支援すると宣言(トルーマン・ドクトリン)。それ以降、南朝鮮では共産勢力の徹底した排除が行われた。そこへ反共活動のため渡米していた李承晩が戻り、反共とともに南朝鮮政権樹立運動を活発化させる。1947年6月には軍政と対立したまま李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立。7月には左右合作を目指していた呂運亨が暗殺され左右が決裂。それを機に北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。」

「金日成は1948年3月に、南半部(北緯38度線以南)への送電を停止(1910年から1945年の間、朝鮮半島を統治していた日本は山の多い半島北半部を中心に水豊ダムなどの水力発電所を建設し、そのため南半部は電力を北半部に依存していた)。一方、李承晩は韓国内で朝鮮労働党を参加させない選挙を実施し、正式国家を樹立させることを決断した。1948年、済州島では南朝鮮労働党を中心として南北統一された自主独立国家樹立を訴えるデモに警察が発砲し、その後ゲリラ化して対抗。その鎮圧の過程で政府の方針に反抗した軍部隊の叛乱が発生(麗水・順天事件)。さらに潜伏したゲリラを島民ごと粛清、虐殺する事件も発生した(済州島四・三事件)。」


反共・反日の李 承晩は、李氏朝鮮の王族の末裔・官僚の血筋でしたが、没落してプロテスタントの監理教会派に入信後、米国で哲学博士号を取られました。日本敗戦後に大韓民国初代大統領になり、朝鮮戦争による過酷な思想洗脳戦を指揮しなければならなくなりました。数十万人にも上る国民を虐殺しなければならなくなった心中を察しますと、一体何が正義なのか?深く思い悩まれたことと思います。
 この途方もない不条理から逃れるために、日本に逃げてきた「難民」の方もいるようです。>



「1948年8月13日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言。金日成はこれに対抗し9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「国境」となった。
 その後、金日成は李承晩を倒し統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。それを受けて北朝鮮は「祖国統一民主主義戦線」を結成した。その後大韓民国では8月12日にジュネーブ条約に調印し、11月に国家保安法が成立するなど、国家としての基盤作りが進んでいた。1949年12月24日に韓国軍は聞慶虐殺事件を引き起こし共産匪賊の仕業とした。」

「反共と同時に反日家でもあった李承晩は、今度はポツダム宣言で日本が放棄したとする日本領土について、返還を主張し始めた。大統領就任3日後の1948年8月18日、記者会見で「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張。1949年1月7日には対馬領有を宣言した。それ以前にも李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領から除外するよう執拗に要求していたが、アメリカは再三にわたって拒絶していた。

 1950年1月12日、アメリカ政府のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言(「アチソンライン」)し、台湾、インドシナなどとともに朝鮮半島には言及がなかった(これは、アメリカの国防政策において「太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味であったが、朝鮮半島は地政学上大陸と太洋の境界に位置していることや、長く日本の統治下にあったこともあって、判断が難しい地域でもある)。

 さらに、極東地域のアメリカ軍を統括していた連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは占領下に置いた世界有数の大国・日本の統治に専念し、1945年8月に着任して以降、朝鮮半島に足を運んだのは1回のみだった。金日成はこれらを「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と受け取った。」

 <アチソン国務長官の発言「アチソンライン」、マッカーサーの朝鮮半島への無関心など、確かに金日成が「韓半島南半分の放棄」と受け取っても仕方ない状況だったかもしれません。マッカーサーは北朝鮮(中国・ソ連)が攻撃してくるとは、まったく考えてもいなかったようです。日本のある知事からは北朝鮮の不穏な動きが伝えられていたようです。参考『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一 』湯浅博著 >

「これらの状況の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(電報の内容を故意に曲解し「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりした)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。

 これを受けて、同年5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。」

「開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。韓国軍は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6000を有していたが、部内に多数潜入していたスパイの粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機(それも練習機)を有するのみであった。

 これに対して、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8000、さらにソ連製を中心とした戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、イリューシンIl-10やアントノフAn-2などのソ連製を中心とした航空機211機を有していた。また、1949年夏より、中国人民解放軍で実戦経験(国共内戦)を積んだ朝鮮系中国人部隊が編入され始めており、これによって優れた練度が維持されていた。

 また、戦闘単位当たりの火力にも差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710メートル(ソ連製122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525メートル(アメリカ製105mm榴弾砲M3)と劣っていた。」

<これだけ戦力の格差があるなら、、金日成(及び軍幹部)は朝鮮南部など一気に占領できると思っても仕方がなかったかもしれません。軍事均衡が崩れると、侵略という脅威が間違いなく現実化します。しかし、米国はなぜこれほどの軍事的不均衡を放置していたのか、過失としか思われないところもあると思います。>

「1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。 このことを予測していなかった李承晩とアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。

 なお北朝鮮では、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているほか、中華人民共和国でも現在に至るまで「アメリカ合衆国による北朝鮮への軍事進攻によって戦争が始まった」と学校で教えられ、中国国家主席習近平も「6.25は平和を守ろうとする侵略に対立した正義のある戦争」であると表明している。 が、この様な北朝鮮や中華人民共和国による主張はソ連崩壊後のロシア政府にさえ公式に否定されている。

 前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車であるT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。ただしその一方、開戦の翌々日には、春川市を攻撃していた北朝鮮軍がその半数の兵力しかない韓国軍の反撃によって潰滅状態になるなど、韓国軍の応戦体制も整いつつあった。」


日本のある勢力も呼応していたというサイトもあります。なおその勢力は、その後分裂して、今は民主主義の政党政治を支持しているようです。中国とも文化大革命時に絶縁したようですが、改革開放政策が始まり、関係修復しているようです。
 それにしても、未だに中国も北朝鮮も「韓国の先制攻撃が開戦の理由」と言い張っているのですから、思想洗脳戦争もずっと続いているのだと、つくづく思いました。>

「南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、6月27日に李承晩大統領による保導連盟員や南朝鮮労働党関係者の処刑命令が出された(保導連盟事件)。同日、韓国政府はソウルを放棄し、水原に遷都。6月28日、ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した(漢江人道橋爆破事件)。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。

 韓国軍の緒戦の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは日本軍出身者だったが、建国後に新たに編成された師団のみで各部隊毎の訓練は完了していなかった。」


「国連軍の苦戦[編集]6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない。

 朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「国連軍」ではなく、「多国籍軍」の一つとなっていた。

 準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件)。」

「また、北朝鮮軍と左翼勢力は、忠清北道や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺した。また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きた」


「この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し(離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。釜山陥落も危惧される情勢となり、韓国政府は日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行っている。金日成は「解放記念日」の8月15日までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりであったが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否して徹底抗戦をして、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めた。」

「マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の9月15日、アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに韓国軍の一部からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功した。

 また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。

 補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。ソウル北西の高陽では韓国警察によって親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される高陽衿井窟民間人虐殺が起きた。」

「10月1日、韓国軍は「祖国統一の好機」と踏んだ李承晩大統領の命を受け、第8軍の承認を受けて単独で38度線を突破した。10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮の朴憲永は中華人民共和国首脳に参戦を要請。中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告、さらに中華人民共和国の参戦による戦線拡大を恐れていたトルーマン大統領も、マッカーサーに対して中国人民解放軍参戦の可能性を問い質した。しかし、マッカーサーはチャールズ・ウィロビーら部下の将校からの報告を元にこれを即座に否定した。

 国連安保理では、国連軍による38度線突破の提案はソ連の拒否権により葬られたが、10月7日、アメリカの提案により国連総会で議決した。これにより10月9日にアメリカ軍を中心とした国連軍も38度線を越えて進撃し、10月20日に国連軍は北朝鮮の臨時首都の平壌(北朝鮮は1948年から1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧した。

 さらにアメリカ軍を中心とした国連軍も、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の命令を無視し北上を続け、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずに敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、日本海側にある軍港である元山市にまで迫った。さらに先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた」

「ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、同盟関係の中華人民共和国に肩代わりを求めた。毛沢東と数名の最高幹部は参戦を主張したが、林彪や残りの多くの幹部は反対だった。反対理由としては次のようなものがあった。

1.中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
2.長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
3.中華人民共和国建国後も中国国民党政府の支配下のままとなった台湾への「解放」や、チベットの「解放」など、国内問題の解決を優先すべき

 しかしこの様な国連軍の攻勢を受けて、これまで参戦には消極的だった中華人民共和国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することを決定する。派兵された「中国人民志願軍」は彭徳懐を司令官とし、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大軍だった。参戦も、威勢のいいスローガンとは裏腹に大きな不安を抱えての参戦だった事が判明し、周恩来はソ連軍の参戦を求めたがスターリンに「アメリカ軍との直接対決は避ける」と呆気なく断られ、彭徳懐はソ連なしでのアメリカ軍との戦争を恐れたと言う。

 参戦が中華人民共和国に与えた影響として、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定され、結果的にそれが成功したため、毛沢東の威信が高まり、独裁に拍車がかかったという見方がある。毛沢東にはスターリンから参戦要請の手紙が届けられたようである。

 中朝国境付近に集結した中国人民解放軍は10月19日から隠密裏に北朝鮮への侵入を開始した。10月25日、迫撃砲を中心とした攻撃に韓国軍はこれを北朝鮮軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国人民解放軍の大部隊が鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認した。

 中国人民解放軍は11月に入り国連軍に対して攻勢をかけ、アメリカ軍やイギリス軍を撃破し南下を続けた。国連軍は上記のように中国人民解放軍の早期参戦を予想していなかった上、補給線が延び切って、武器弾薬・防寒具が不足しており、これに即応することができなかった。また、中国人民解放軍は街道ではなく山間部を煙幕を張って進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。

 11月24日には国連軍も鴨緑江付近より中国人民解放軍に対する攻撃を開始するが、中国人民解放軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。しかしマッカーサーやウィロビーなどの国連軍上層部は東京に留まり、最前線への視察に出ることはなかった。

「MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。1月6日、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した(江華良民虐殺事件)。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が命を落とした。2月9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が引き起こされた。

 中国軍は日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ経験と、人命を度外視した人海戦術、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だったが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。

 それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。」

「1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破する。

 またマッカーサーは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯、第二次世界大戦と国共内戦終結後もその殆どがそのまま使われていた満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍で爆撃し、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質の散布まで検討された。

 この頃マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、さらに原子爆弾の使用の提言など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視し、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言が相次いだ。

 マッカーサーが暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任した」(一部転載終わり)


<マッカサーの取った行為は、軍人としては至極当たり前なものだったと思います。朝鮮戦争の後半は、実質「米中戦争」だったのですから、中国(中共)の補給基地を叩くというのは戦略上当たり前だと思います。戦場では若い米国兵の血が流されており、その原因は北朝鮮(中国)の宣戦布告なき奇襲攻撃(先制攻撃)によるものなのですから、「戦争」であれば当然中国の補給基地を壊滅させるべきかと思われます。確かに第三次世界大戦の恐れや、政治外交的な解決の努力も大切かと思われますが、この中途半端な休戦により、今の中共や北朝鮮という独裁制のモンスターが育ってしまったのではないでしょうか。>















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