数理論理教(科学教)の研究

数理論理(科学)はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか、少しでも考えてみたいと思います。人文系

プラトン原理主義?数理論理教とは何か?

2015-05-05 22:14:04 | 存在哲学(宗教)
[注意 私個人がただ考えたことを記事にしています。私は、どの宗教団体・活動団体にも属しておりません。]

 ○○教原理主義という言い方があります。「原理主義」とは、もともとは神学論争で用いられた用語のようです。私は単にネーミングが良いので、「プラトン原理主義」として、数理論理教を説明してみようと思います。なお「数理論理教」などというものは、学問的にまったく議論されているものではありません(私の思い入れでしかありません)。

 以前「イルミナティ、ルシファー、悪魔?」という記事を書きました(一部引用)。

「 「数理論理教」の根本教典は、私はプラトンの『国家』等の教えだと思う。
 
 
 1.この世の真理(最高道徳・美)は、抽象的な数理論理性にある。現実にある現象はすべて、この抽象的な数理論理性に還元できる。なお「数理論理」であり、単なる「数」ではありません。プラトンもピタゴラスも伝統的な数学(算術)は、究極の数理論理性の解明(存在哲学の論理化、現在のメタ数学的なもの)のために役立つと考えていたようです。

 2.家族愛や恋愛などは普遍的なものではなく、朽ち果ててしまうべきはかないもので、このようなものに真理はない。

 3.社会道徳のような政治的な倫理は、偽善に満ちてまったく確実なものがない。今まで長い歴史の中で倫理的な諸制度が行われてきたが、すべて腐敗して醜い欲望の渦と化しているに過ぎない。このようなものに真理はない。

 4.最高の数理論理性を極めれば、その「真理体=神」に一体となり、魂は救済される。

 5.そのために、家族は禁止、男も女も数学的素養、音楽(音階による論理性)、軍隊教練(精神=身体の数理論理性)に励み、その中のエリートだけがこの数理倫理性を持った「真理の王国」を運営することができる。素養の欠ける人間はすべて間引きする。子供は国家がすべて管理して教育する。

 このように非常にカルト的ですが、宗教教義的にはすごく完成されていると思います。神秘主義(神との一体化)の手法は、数理論理性の探求のみです。よくある瞑想とか悲惨な修行より合理的だと思いますが…、まあ趣味の問題でもあるかもしれません。

 (数理論理教での実際的な社会への応用としては、「理想的で人工的な規律=法律」「合理的な社会経済の裏付け=会計」などによるものと思います。欲望人間を矯正する「法律体系」「会計基準」が必要です。)(引用終わり)」

 この中では、「数理論理的思考」が最も重要だと思います。これは究極的な自由で創造的な思考でなければなりません。何らの社会的・民族的な慣習や因習、宗教的教義などにも囚われることなく、文字通り「数理論理」のみを基に探求することが必要です。そして、それは実存的な絶対的真理(精神と物質の究極の統一原理)を解明することであり、そしてその絶対的なな真理を分かち合うことにことにより、真理と融合的に一体となることができ(神秘思想)、魂は浄化され救済されます(願望?)。おおむね、そのようなストーリーになる考え方だと思います。

 プラトンの数理論理教的な教えを私なりに解釈して説明してみます。

 1.コンピューターのソフトに例えてみます。

(1)数理論理的な根本的な思考=機械語(0と1の二進法のみの論理言語)
(2)(1)では分かり難いので、言語的な思考(基本的な記号による思考)=プログラミング言語
 なおプログラミング言語でも数理論理的なもの(例、C言語)や言語的なもの(例、昔のCOBOL)があります。
(3)(2)でも分かり難いので、象徴化された記号の使用、分かり易く手順方法を定める=アイコンや単純な操作手順((例)ウインドウズの様々なアイコンや操作方法など)
(4)(3)により作られた様々な記事、表や絵(マンガなど含め)など=象徴化やドラマ化された様々な具象的なモノ(スローガン、差別用語、性的図像、昼メロ的なワンパターンドラマ化などのお話など)。ブログでよく差別用語丸出しで、論争というか貶し合いしていることもありますね。

 私たちは普段(4)の世界で暮らしていると思います。(3)に詳しい方は事務処理能力があると見られるかもしれません。(2)に詳しい方は、もう「オタク」などと呼ばれているかもしれません。そして通常(1)に携わっているいる人を想像することすらできないかもしれません。(1)から(4)に向けて偶像化していきます。人間というのは、ある意味象徴化・偶像化された世界にいないと生きていけないのかもしれません。


 2.記号論的(私が感じた程度)に考えてみます。

(1)数理論理的な根本的な思考=メタ数学を頂点に、様々な数理論理学、そしてその基礎の上にある数学。ある意味数学は数理論理学を分かり易くした記号に当たると思います。数字も記号。
〔以前記事にした「存在哲学とは何か」の中で引用した『素数は「神の暗号」』でも説明されているように、この数理論理的な考えは、精神と物質の両方を統一するかもしれません。〕

(2)(1)を基礎とした物理化学など自然科学=記号である数学で表された法則性など(記号のカテゴリーされた記号のようなもの?)。この段階では仮説が多くなり、時として神学論争のようになります。大昔ニュートンの万有引力がすべてでしたが、それはアインシュタインの理論の特定な場合だけ正しいということになり、量子論が導入されるとまた修正されました。

(3)(2)でも一般の人には難解ですね。もっと具象化されて分かりやすい記号=言語、色、形、音階、ボディーランゲージなど。
 例えば「怒り」のような感情を表そうとすると、言語的には「怒り」「憤怒」「怒髪天を衝く」「あったまきたー」「チキショー」などありますね。色で表すと「赤」などでしょうか。音ですと周波数が高い音域ですか。形だとマンガにある怒り印?ギザギザ図形など?。ボディーランゲージだと、憤怒の形相、拳骨を突き上げるなどですかね。記号論では、大元の意味に関して、これらの表現方法は変換可能だと考えられています。
 昔、動物行動学(入門書は『ソロモンの指輪』コンラート・ローレンツ著)などを読みましたが、動物の様々な動きなどには意味がある(記号である)とのことでした。
 レヴィストロースは未開人の生活様式(最も単純な社会構造)を観察して、その社会関係を「記号化」して、その基本型から現代の複雑な社会構造を解き明かそうとしていたようです。

 
 
 
 
(4)(3)の具象化された記号を組み合わせた表現。もうこれは日常的に行われている様々な会話やドラマ化などですね。
 ドラマ化というのは、「感情(怒り・喜び・悲しみ等)を発するための様々な記号(裏切り・死・愛情・救済等)を組み合わせる技術だということだと思います。
 記号論ではドラマもカテゴリー化して研究されていたようです。例えば「白馬の騎士願望」、これは「救世主願望」という類型の中に、様々なパターンがあるようです。ウルトラマンの物語もこの「救世主願望」の一つと言われています。もうこの世界になりますと、様々なドラマ化が入り混じり、何が何だか分からなくなります。

 
 3.宗教的に考えてみます(あくまでも私の考えです)。

 今度は(4)から見てみます、まず(4)は上記1.2の(4)のような世界です。
 つまり象徴化・偶像化・ドラマ化されて、グチャグチャな世界です。 

 (3)(4)の混沌を解消するために、社会的・習俗的な普遍的な価値を考えます。=道徳的な考え?

 (2)(3)より普遍的な考え。主に言語的に考える。宗教的な経典など。
 言語というものは、「抽象的な想念」を「客観的な記号論理」に表したものだと思います。そしていったんできあがった「言語的客体の論理構造」は、人間の行動様式を深く律することになります。
 特に法律関係の「言語的論理構造」は、その定義(ことばの意味=論理構造)の変遷にともない、法治国家の国民を決定的に支配します。そういう意味では「法律の言語的論理構造」は宗教にも似た決定論的な重要性(宗教のような)を持っていると思います。
 また会計における「言語・数式の論理構造」は、現代では主要な目的行動である経済行動様式を決定的に律しています。これも宗教に似た一種の「言語(数式)的論理構造」だと思います。
「法律・会計」の「言語学的論理構造」は、数理論理教の俗世において、人間社会を実際的に律するものだと思います。日本や中国・韓国などが「法律・会計基準」をあまり重要視しないのは、根本的に数理論理教への親和性がないのだと思います。法律・会計基準に反する行為は、形式的には(数理論理の)神に対する最も重い罰だと思います。

 (1)(2)より普遍的な考え=数理論理的な考え。もう宗教というか存在哲学=純粋論理学です。瞑想というのは脳(又は人間全体)からの電磁波なようなもので、大元の根本存在を探っているとしまうと、非常に面白いと思われますが?
 「宗教」というのは、私は「存在哲学」のことだと思います。そして一番真理に近いのは数理論理的思考だど思います。
  なお空海さんの『十住心論』 で説かれている内容は、道徳的な教え⇒言語的な真理(教え)⇒記号論理的な真理(真言密教)というような段階的な認識手法を紹介されているのだと思います(私の考えですが…)。
 
 
 
 
 4.自由、博愛、平等(私の解釈)
 「自由、博愛、平等」というスローガンを掲げて、フランス革命やアメリカ独立戦争が行われました。私はこのスローガンは、プラトン原理主義のカルト的な考えを覆い隠すものだと思います(カモフラージュ)。
 この中で最重要なのは、「自由」だと思います。この「自由」は数理論理的思考をするための根本的な権利で、「人権」と同じ意味合いだと思います。(以前「人権と数理論理教」という記事を書きました。)
 「自由」=「人権」=「数理論理的思考」だと思います。これは絶対的に必要な「権利」であって、侵すことは許されないものだと思います。「博愛」というのは、この「数理論理的思考」を持った人たちだけの間に通用するものだと思います。数理論理的思考をしない人たちには、「愛」など差し向けることはないのです。「平等」もこの数理論的思考をする人たちだけに通用します。数理論理的思考をするために、平等も与えられているのだと思います。
 アメリカではインディアンが大量虐殺されましたが、数理論理的思考がない人たちには「人権」はないと思っているのかもしれません。


 5.近代科学、プロテスタンティズム、資本主義
 この奇妙な「プラトン原理主義」は、近代科学、資本主義とともに爆発的に広がり始めました。近代科学の応用として、様々な「商品」・「機械」・「武器」などが発明・製造されました。これらは、人間社会に絶対的(決定的)な影響力を与えました。これらにより自然も人間社会も人工的に改造されるようになりました。
 イスラム世界などでは、「コーラン」の教えで完結した社会であるはずなのに、この数理論理主義はどんどん侵略していきました。仏教や儒教という偉大な精神世界を持つアジア社会も侵略されました。なぜ可能となったのか?それは「科学技術応用兵器の威力」と「数理論理的な戦術・戦略(諜報・謀略含め)によるものだと思います。
 
 
 共産主義というのも、一種の数理論理主義だと思いますが、旧共産圏(ソ連・中国など)は「自由」=「数理論理思考」を言論統制などにより抑圧してしまいました。これは、本末転倒だと思われます。「共産主義」=「数理論理主義の頂点」は単なる具象化されたマンガ的なものに喩えられてしまったようです。労働者が単に団結して、経営者に代わってみても、自由な数理論理思考の競争なしでは、相対的剰余価値の拡大→有機的構成の高度化は達成できないと思います。
 

 6.世界政府、子供の世界管理、プラトン原理主義の世界宗教化?
 今後、数理論理主義競争が進めば、科学技術の負の側面の公害悪化(放射能含め)や地球環境の激変などなければ、もしかすると「プラトン原理主義」が世界宗教になることもあり得るかもしれません。そうなれば、子供は国家が管理するようになり、差別はなくなるのでしょうか?もし過激なプラトン原理主義者がいたとすると、この主義を受け入れない人たちは全て虐殺(ハード・ソフト含め)されてしまうかもしれません。「文明化」・「工業化」・「近代化」とは、このプラトン原理主義の皮相的なメリット面を言っているのではないでしょうか?
 しかし、米国では本気に火星移住なども考えているようで、遺伝子操作による新たな生物の創造、電子頭脳を持ったロボット、UFOのようなもの(TR-3Bなど)なども開発しているかもしれません。イラク・湾岸戦争で米国の最先端兵器にびっくり仰天してしまいましたが、今度の戦争では想像を絶する兵器が登場するのではないでしょうか。「プラトン原理主義」(近代化・文明化でカモフラージュされている)はますます広まるのでしょうか?

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「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学) (SumioBaba)
2016-05-06 01:43:50
 全知全能の「神」の定義です。詳しい説明は、Amazon(KDP)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)』シリーズの《基礎論》(ASIN:B019FR2XBC)、《詳細論》(ASIN:B019QNGL4K)、《真如論》(ASIN:B01EGRQXC6)、《独在論》(ASIN:B01EJ2URXO)の中にあります。

 まず、特定の1つの状態として全知全能の「神」を定義しようとすると、解無しです。「神」を「○○○である」と定義すると、「神」は「○○○でない」を放棄し、全知全能でなくなってしまうからです。「神」が全知全能であるためには、「○○○である」と「○○○でない」の両方を満たさねばなりませんが、これだと矛盾が生じてしまい、「神」とは何かを議論する事自体が無意味になってしまいます。

 これを超越する方法が1つ有ります。量子力学の多世界解釈です。「神」は、この世界で「○○○である」を、別の世界で「○○○でない」を実現し、両者は線形の重ね合わせであって互いに相互作用しないので、個々の世界に矛盾は無い、と考えれば良いのです。つまり「神」を、様々な状態の集合として定義することになります。

 「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験しているか?」と尋ねてみます。もちろんYESです。NOだったら全知全能とは言えません。つまり、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要条件です。では、これ以外にも条件が必要でしょうか? それは不要です。仮にこれ以外に「○○○であること」が必要だと仮定してみても、結局これは、「「○○○である」と認識している心を体験すること」になるからです。従って、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要十分条件です。そして全知全能の「神」の定義は、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」になります。

 M0が完全な無意識状態の「空」であり、M1、M2、M3、…が特定の有意識状態「色」であり、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕。大乗仏教でいう「真如」の超越状態がM0、束縛状態がM1、M2、M3、…。西田幾多郎のいう「絶対無」がM0、「絶対有」がM1、M2、M3、…、「絶対矛盾的自己同一」がM0=M1+M2+M3+…です。

https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%80%8D%E3%82%92%E5%AE%8C%E5%85%A8%E3%81%AB%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-SB%E9%87%8F%E5%AD%90%E7%A5%9E%E5%AD%A6-%E3%80%8A%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E8%AB%96%E3%80%8B-%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E7%B4%94%E9%9B%84-ebook/dp/B019FR2XBC?ie=UTF8&dpID=51HD4AQtVjL&dpSrc=sims&preST=_AC_UL160_SR100%2C160_&refRID=1AE797ZBXPK1TGRXQ6WZ&ref_=pd_sim_sbs_351_1
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「神」のすべてがトートロジー (SumioBaba)
2016-05-06 01:56:21
 全知全能の「神」の説明です。Amazon(KDP)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)』の《詳細論》(ASIN:B019QNGL4K)からの引用です。

 ライプニッツのモナドロジーに則り、実在するのは個々の心(モナド)だけであり、客観的物質世界なるものは実在しないと考えます。さらに量子力学の多世界解釈を取り、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が実在していると考え、その集合{M}を「神」と定義します。人間の心は要素の1つです。「神」は、あらゆる心の状態を体験しているという意味で「全知全能」です。個々の心が持てる情報をNビットとし、個々のビットが独立して「0」、「1」、「?」(=「0」+「1」)の3つを取り得るとすると、全部で3^N種類の心になります(N→∞)。

 2つの心MiとMjが、シュレディンガーの猫の「生きた状態を知覚した心」と「死んだ状態を知覚した心」のように矛盾する情報を持つとき、<Mi|Mi>=<Mj|Mj>=1(自分にとって自分の存在確率は1)ですが、<Mi|Mj>=<Mj|Mi>=0(自分にとって相手の存在確率は0)です。つまり個々の心Mi(i=0、1、2、3、…)は、「「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」」、「「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」」のダブル・トートロジーを満たしています。これを「半存在」と呼びます。こう考えると、「なぜ存在するのか?」、「なぜ存在しないのか?」という謎自体が消滅します。

 1人の人間である自分の心M1は、「なぜ自分の心M1は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」、「なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなくこのM1なのか?」、「なぜ自分が住む世界の物理法則は、他の物理法則ではなくこの物理法則なのか?」、…等の謎を感じますが、「神」の視点に立てば、すべての謎が消滅します。「神」は全知全能であり、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を作っています。そして、「「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する」、「「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する」というダブル・トートロジーが成立しているだけです。「神」に謎は何も有りません。

 さらに、自分が体験しているのは1人の人間の心M1だけだと考えると、M1に対し「もっとこうありたかったのに…」という不満が生じます。実は自分こそが「神」であり、本当は存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を平等に体験しているのだと悟れば、何一つ不満も無くなります。これが究極の悟りです。「神」は完全な「無」M0であると同時に、すべての「有」M1、M2、M3、…でもあります。これがM0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕。「神」もまた「半存在」であり、「存在する」と「存在しない」の両方を実現しています。一方だけ実現して他方を放棄すると、全知全能でなくなってしまいますから。

 長文のコメント、失礼いたしました。


http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%80%8D%E3%82%92%E5%AE%8C%E5%85%A8%E3%81%AB%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-SB%E9%87%8F%E5%AD%90%E7%A5%9E%E5%AD%A6-%E3%80%8A%E8%A9%B3%E7%B4%B0%E8%AB%96%E3%80%8B-%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E7%B4%94%E9%9B%84-ebook/dp/B019QNGL4K?ie=UTF8&*Version*=1&*entries*=0
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