子貢問いて曰く、「一言にしてもって終身これを行うべきものありや。」子曰く、「それ恕か。おのれの欲せざるところは、人に施すなかれ。」
子貢が質問した。「この一言をして生涯つらぬくべきという言葉はありますか。」先生はおっしゃった。「それは恕という言葉だろう。自分がしてほしくないことは、人にはしてはならないんだよ。」
*
今も日常、繰り返し人の口に上る、当たり前のことなのですが、これが今も胸にしみるということ自体が、悲しいことなのかもしれませんね。
子貢という弟子は、貨殖列伝にも名を連ねるほど、商売が上手だったらしいのですが、たぶん商売上でいろいろといたいこともしていたのでしょう。ここらへんのことを孔子にたしなめられている言葉が、よくあります。世渡りが巧みな人ほど、何かにつけうまく物事を人におしつけ、自分はたくさんとるということが、すらりとできるものですから、孔子が苦い思いを抱くということも、あったのでしょう。
仁者ならば、人の痛みを感じてできないことも、できてしまうのは、彼の中の自己の感覚の中に、真実がなかったからです。
*
子貢問いて曰く、「賜やいかん」。子曰く、「なんじは器なり。」曰く、「何の器ぞや」。曰く、「瑚なり」。(公冶長)
子貢が質問した。「先生はわたしを、どんな者だと思われますか」。先生はおっしゃった。「おまえは器だよ」。「どんな器ですか」。「瑚だよ」。
*
器というのは、要するに、「自分」という感覚がないもの、という意味だと思います。中身がない、からっぽという感じで、ほんとの自分がないという意味で使ったのでしょう。自分の中に、己自身だという確信がしっかりとあるものには、人がいやがることはけっしてできないものです。それは、人の痛みも自分の痛みとして感じるからです。
自分も自分自身であるなら、他人もまた同じ、自分自身であるのです。痛みも悲しみも苦しみも喜びも感じる、心を持っている。おなじ人間として、痛いことはできない。だから、人は人として、大切にしなければならないと、思うものなのです。
「自分」のある人間は、「愛」が実感覚として、わかるのです。愛さずにおれない。ところが、この「自分」という感覚が、すっぽりと抜けている人は、それがわからない。他人の痛みがわからない。だから平気で、痛いことを他人に押し付けたりする。
子貢は、たぶん、日常、そういうことをたくさんやっていたのでしょう。利をとるのが商売ですし、それで暮らしているのなら、多少そういうことも必要ですが、それはそれ、ほかのところでなんとかしあう人としての情を大切にすれば、そんなに苦しくはないものです。けれども少々嫌味に才気走ったこの弟子には、行き過ぎたことをするということも、多くあったのだとおもいます。
しかし、こういう「自分」がない人ほど、「自分」というものをほしがるもの。金持ちで頭のいい自分を、師がどんな風に評価しているかがとても気になり、質問してみます。すると孔子は、「おまえは器だ」と。それは、大して役に立つが、もっとも大事なものが欠けている、という意味だったのですが、子貢にはそれがわかるはずもなく、今度は「どんな器ですか」と食い下がる。すると孔子は、「器の中でも最高の器、瑚だよ」と。
たぶん子貢には、孔子の真意は生涯わからなかったでしょう。
自分がないものほど、派手できらびやかなものをほしがるものです。ですがそれは、本当の自分ではない。その中枢にかかわる感覚を理解できないものには、ただ、人が嫌がることはしてはいけないよと、教えるしかない。ですが弟子が、これだけでわかるはずもないことも、わかっている。
これだけの会話の中にも、両者にはてしない隔たりがあることを感じる。
孔子は孤独だったでしょう。