エドガール・ミントス氏は、とてもお金持ちでした。外国製の素敵な自動車を五台と、エメラルドの鉱山がひとつ、それと大きな白い船を一艘、そして大理石の柱がある、大きくて立派なお屋敷と、薔薇の温室がある、素敵な広いお庭と、ほかにもたくさん、いろいろなものを、持っていました。
鉱山からとれるエメラルドはとても上質で、高く売れて、ミントス氏はお金をたくさん、儲けました。家には、たくさん使用人がいて、みんな、ミントス氏の言うことを聞きました。ミントス氏はたいそう、自分がえらくて、自慢でした。黒い髭も立派で、仕立ての良いスーツを着て、指にはもちろん、大きなエメラルドの指輪を、いつもはめていました。
ミントス氏は、こんなふうにたくさんのものを持っていましたが、中でも一番自慢なのは、たくさんの薔薇の咲く温室でした。七人も、庭師を雇って、一年中、きれいな薔薇が見られるように、ずっと世話をさせていました。だから、ミントス氏はいつでも、見ようと思えば、美しい薔薇を見ることができました。赤や、黄色や、ピンクや、白や、それは色とりどりの、美しい薔薇を、いつも、見ることができました。ミントス氏は薔薇が大好きで、外国に珍しい薔薇があると聞くと、わざわざ、薔薇商人を自分の元に呼び寄せて、薔薇の株を持って来させました。自分から行くのは、とんでもないと、思っていたからです。自分は、えらいから、いつも、相手の方が、自分のところへ、品物を持ってくるのが、当たり前と、思っていました。ですから、ミントス氏はいつも、家にいて、たいていは、薔薇の庭を見ながら、遊んでいました。仕事はときどきやりました。でも、ほとんどの仕事は、みんなミントス氏の雇い人がやっていました。ミントス氏は、えらいから、エメラルド鉱山なども、持っているだけでよくて、たいていは何もやらなくてよかったのです。お金さえいっぱい持っていれば、みんなが、なにもかも、やってくれるからです。
ある日、ミントス氏は、雇い人から、とても興味深い話を聞きました。古い時代に作られた、とても珍しい薔薇の図鑑があるというのです。それには、腕の良い版画家がそれは精密に、とても美しく描いた、形も色も様々な薔薇の絵がたくさん載っており、品の良い小人が行儀よく背を並べて、踊りながら並んでいるような美しい文字で、花の名前や、由来や、種類や、育て方などが、詳しく書いてあるというのです。
「ほう、そんなに珍しいのか」と、ミントス氏は、雇い人の話に耳をそばだてました。
「ええ、それはもう。古い時代に、装丁職人と版画家がとてもよい仕事をした、とても良い本です。ある古書店で偶然見つけたのですが、見ていると、本当に薔薇の香りが漂ってきそうなほどです。古書店の主人の話では、多分、もうこれと同じ本で、これほど保存状態がよいものは、ほかに見つからないのではないかと。少々お高うございますが、ご主人様の耳に入れても、そう御迷惑でもないかと思い、お知らせいたしました次第です」
ミントス氏は、値段が高い、と聞くと、それがどうしても欲しくなりました。自分には買えないものなどないと思っていましたから、特に高価なものだと言われると、どうしても手に入れてしまいたくなるのです。そこで早速、ミントス氏は雇い人に、古書店の主人に本を持ってこさせるように、言いつけました。
古書店の主人は、その翌日、さっそく、その本を持って、ミントス氏の元を、訪れました。古書店の主人は、ミントス氏の屋敷の立派なことに、最初とても驚いていましたが、ミントス氏が応接室に姿を現すと、すぐに立ち上がって丁寧に挨拶して、言いました。
「このたびは、本をお買い上げいただき、ありがとうございます。わたしが、ウジェーヌ・ポル、ほんのささやかな、古書店を営んで、暮らしております」
その声を聞いて、ミントス氏は、びっくりしました。ウジェーヌ・ポルは、質素な灰色のスーツを着て、茶色の髪に茶色の髭をした、たいして特徴もない、どこにでもいそうな普通の男に見えましたが、ただその声だけは、まるで名手の奏でるバイオリンの調べのように美しく柔らかく、とても気持ちの良い美しい言葉を話し、快くミントス氏の胸にひびいたのです。その声と言葉を聞くだけで、ミントス氏は、何やら胸の奥で小鳥が踊るように、気持ちがうれしくなるような気がするのでした。でもミントス氏は、自分の方がずっとえらいと思っていましたので、そんなことはおくびにも出さずに、ポル氏の差し出した、古い図鑑を手にとり、たいして興味もなさそうに、ぱらぱらとめくりました。
確かに、本の中には、本当に香りが漂ってきそうなほど、見事に描かれた薔薇の絵が、何枚も載っていました。それは、チョウチョウがひとひら、本物と勘違いして飛んできてしまいそうなほど、今にも風に揺れて、花弁の一枚でもはらりと落ちてしまいそうなほど、見事に描かれていて、一冊の本が丸ごと、一つの大きな花園のようでした。過ぎた時の流れの中で、少し色を変えてしまった緑や赤や黄色の色が、一層それを美しく見せていました。
「ふむ、まあ、わるいことはないな。よし、これだけで買おう」と言いながら、ミントス氏は小切手を出し、さらさらとその上に金額を書きました。その額を見て、ポル氏はびっくりして青ざめ、とんでもない、と言いました。
「これは確かに、珍しい本ですが、こんなに高いものではありません。もっとお安くしてください。適正な価格と言うものがございます。わたしは、これほどくらいいただければ、けっこうです」
ミントス氏は、つまらなそうな顔をして、ポル氏の顔を見ました。何度か小切手をポル氏に差し出しましたが、ポル氏は首を振るばかりでした。それで仕方なく、ミントス氏はポル氏の言った価格で、その本を買うことにしました。ポル氏はほっとして、小切手をいただくと、ミントス氏にお礼を言って帰っていこうとしました。するとあわてて、ミントス氏が、ポル氏を呼びとめました。
「ちょっと待て。そんなやすい金でいいというのなら、おまえにいいものを見せてやる」
「はい? いいもの、ですか?」
ポル氏はびっくりして振り向きました。ポル氏は仕事のこともあって、早く店に帰りたかったのですが、ミントス氏がどうしてもと言って聞かないので、仕方なく、ミントス氏に従うことにしました。ミントス氏は、ポル氏を、庭の、薔薇の温室に連れて行きました。そこには、季節を問わずに咲く、美しい薔薇が、咲き乱れていました。
「どうだ、見事だろう。これほどの薔薇を集めるのには、大変な金がいったのだ。ぜんぶわしのものなのだ。たとえばこの青い薔薇などは、東の東の、もっと東の、遠い国から、薔薇商人に持って来させたのだ。国で、この薔薇を持っているのはわしだけだ」
「ほう、これはまことにすばらしい。なかなかに、できないことでございますねえ」
ポル氏は薔薇の温室を見まわしながら、本当に感心して言いました。ミントス氏は、ポル氏の音楽のようにやさしいその声を聞くと、なんだか気持が澄んで穏やかになり、本当に幸せな気持ちになって、まるで子供のように嬉しそうに、次々と、自分の持っている薔薇をポル氏に見せては、自慢しました。ポル氏は笑って、ミントス氏の説明を聞きながら、時々、質問をしたりなどして、ひととき、ふたりで会話を楽しみました。
「では、そろそろ時間もすぎましたので。今日は本当にありがとうございました。本をお買い上げくださった上、美しい薔薇をたくさん見せて下さって、本当に幸せな一日でございました」やがてポル氏は言いました。ミントス氏の胸に、ふと影のようなさみしさがよぎりましたが、もうこれ以上、古本屋の主人ふぜいに、親切にしてやることもないな、とも考え、ポル氏が帰ることを許しました。ポル氏は、丁寧にミントス氏に挨拶して、帰っていきました。
ミントス氏は、ポル氏が帰ってしまうと、自分の書斎に戻り、しばらく、机の前に座り、ぼんやりとしていました。もう一度、あのバイオリンのようなやさしい声を聞いてみたい、という思いがよぎりました。でも、なんでわしが、あんなものの声を聞きたいと思うものかと、すぐに、腹が立って、ミントス氏は立ち上がりました。そして不機嫌な声で雇い人を呼び、早く夕食の用意をしろと命じました。「兎のシチューが食べたい。準備はしてあるだろうな。おもいきりうまいものが食べたい。早くしろ」すると雇い人は青ざめて、あわてて厨房の方に走って行きました。兎のシチューなどと突然言われて、調理人も困り果てました。兎の肉はありませんでしたが、何とか近くの肉屋に問い合わせ、急いで小鹿の肉を持って来させました。そして調理人は何とか工夫して、それを兎の肉そっくりに味付けをして、みごとにシチューを作りました。ミントス氏は何にも気づくことなく、シチューをうまそうに食べました。
それからというもの、ミントス氏は何かにつけ、不機嫌に、雇い人に乱暴な態度で当たることが多くなりました。とても無理なわがままを押し付け、時には雇い人にはとてもできないようなつらいことを命じることもありました。雇い人たちは苦しくなり、だんだんと、ミントス氏の屋敷で働くことがいやになって、ひとり、ふたりと、ミントス氏の屋敷を離れていきました。ミントス氏は別に気にもしませんでした。お金さえあれば、雇い人などすぐに見つかるものですから。
やがてミントス氏は、いつもエメラルドの商売を自分の代わりにやってくれていた雇い人に、とても冷たい、馬鹿にしたようなことを言ってしまい、その雇い人に、もういやだと嫌われて、去られてしまいました。それで、ミントス氏は、エメラルドの商売を自分でしなければいけなくなりましたが、ミントス氏はそうなって初めて、エメラルドについて自分が何も知らないことに気づきました。自分は家にいて遊んでいれば、全ては雇い人がやっていてくれたからです。ミントス氏はエメラルドの商売を自分でやろうとしましたが、乱暴で横柄な態度ですぐに取引先と喧嘩してしまい、商売がまったくうまくいかなくなりました。エメラルドはだんだんと売れなくなっていきました。それと同時に、鉱山からとれるエメラルドも、だんだんと少なくなってきました。
少しずつ、ミントス氏の周りから、いろいろなものがなくなっていきました。まず、五台あった車が、一台になりました。船も、なくなりました。雇い人もだんだんと少なくなってゆき、ミントス氏の周りはだんだんさびしくなっていきました。エメラルドはさっぱり売れなくなり、お金もどんどんなくなっていきました。やがて、庭師もやめてゆき、庭の薔薇は世話もされずに放っておかれて、病気になり、だんだんとしおれて枯れてゆきました。ミントス氏は鉱山を売りました。車も、土地も、家も、みんな、売りました。持っているものは、みるみるうちになくなってゆき、とうとう、ミントス氏はほとんど全てを失って、住んでいた町を逃げるように離れて、風に流されるように、ある田舎町の古い小屋に住みつき、そこでひとりで暮らすことになりました。
「みんな、なんて馬鹿なんだ。このわしの言うことを、きかないなんて」ミントス氏は、ある日の夕方、隙間風の吹く小さな小屋の中で、せまいベッドの中にうずくまりながら、怒ったように言いました。ふと、ミントス氏は、外から、子供の歌う声が聴こえてくるのを、聞きました。
国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている。
それは国に伝わる、古い歌でした。ミントス氏もそれは知っていました。ミントス氏は、それを聞いているうちに、何となく、昔会ったことのある古書店の主人のことを思い出しました。ああ、あいつ、名前はなんて言ったろう? ミントス氏はベッドの中で考えました。名前はなかなか思い出せませんでしたが、あのきれいなバイオリンのような声は、はっきりと思いだすことができました。ミントス氏は、ああ、とため息をつきました。
「きれいな声だったなあ。わしは、いつまでも聞いていたかったんだ。あの声。まるで、胸が透いてくるようだった。幸せだったんだ。なんで、あのまま、帰してしまったんだろう? そうだ、ともだちに、なればよかった。ああ、なんと言ったっけ、あいつ。名前はそう、たしか、う、ウジェーヌ…」
ミントス氏は、目を閉じました、夢の中に、灰色の悲しいため息が聞こえました。涙が一筋流れ、枕をぬらしました。ミントス氏の指には、ただ一つ手元に残った、エメラルドの指輪が、ありました。
いつまでも、聞いていたかった、あの、やさしい声…。
ミントス氏は、まだ日も沈みきらないと言うのに、深く、眠りに入りました。そして夜の帳があたりに落ちる頃、もっと深い眠りに、落ちました。
指のエメラルドが、かすかに光りました。エメラルドは、遠くから、かすかに聞こえる、バイオリンの音を聞いていました。
ミントス氏も、夢の奥の奥にある夜の中へ、流れてゆく風の中で、かすかに、その音を、聞きました。
(おわり)