果てしない藍玉の地平があった。空は薄紫であった。月は水晶に金を練り込んだ鈴でできていた。
ああ。
首府の長は、空色の髪を風になびかせ、一息の風を吐いた。悲哀の海は平らかに彼の胸の中で凪いでいた。微笑みはうっすらと唇から蘇ったが、瞳ははるか彼方を見ていた。なすべきことの多さと、はてしない道の行く手の、彼方に向かって消えていることが、一つの美しい幻となって彼の前に見えた。雲もないのに、時折、静かな雷鳴が、はるかな天の幕の向こうを、巨大な見えない鳥が渡って行くかのように、大気をくらくらと揺らした。
とぅい…、神よ、と彼はつぶやいた。今日、この日、地上であったことが、これから地球に起こすであろう運命を修正し、少しでも正しい道へと引きもどすために、多くの上部人たちを、彼は地上に放っていた。彼らは、もうすでに、様々な活動をしているはずであった。それがどれだけ、人類の未来を動かして行けるものか、今の彼には推測することもできなかった。ただ、やるべきことを、今できることを、いや、できなくてもやらなければならないことを、みな、やらねばならなかった。やらねば、ならな、かった。
今日、地上に、一つの、太陽が、落ちたのだ。人類が、太陽を、地球に落としたのだ。
ああ。
首府の長はまたため息をついた。涙が一筋流れた。涙はほとりと藍玉の地に落ち、そこに、ひとつの小さな空色の池を作った。彼は静かにそのほとりに座り込み、かすかな息を吹いて、その上に、金色の小さな睡蓮を咲かせた。睡蓮は心地よい乙女のような澄んだ声で歌い、長の悲哀に、かすかな希望の色を混ぜた。彼は睡蓮に、深い愛のまなざしを注ぐと、ゆるりと立ち上がり、また空を見た。そして、人類の運命を幻視した。血と、腐肉と、黒い臓物を突き刺した骨と、木の実のように握りつぶされた無数の眼球が、蛆と糞尿と灰のがれきに混ざってうずたかく積もり、天を突き刺すほどの巨大な山岳となって見えた。その山岳の奥では、怨呪の青い熱が氷のように熱く煮えたぎり、今にも噴き出しそうなマグマの塊となって蛇のようにうねりうごめいていた。地下を見ると、山岳の黒い根が、怪奇な迷路のように絡み合いながら、暗闇の中に果てしなく広がって伸びていた。
長は目を閉じた。すると、閉じた目の中に、今地上で起こっていることが見えた。太陽の中で、人類が燃えていた。大地が燃えていた。命が、心が、魂が、砕け散り、燃えていた。溶けるはずのない金剛石の愛が、割れるように響き、叫んでいた。太陽は地上に一筋の炎の巨大な柱となり、突き刺さっていた。そして、それを何とか清めるために、多くの聖者たちが、鳥のように群れ飛びながら巨大な紋章を書き、高い呪曲を歌いながら様々な魔法を行っていた。若者たちが多くの死者たちを導いていた。彼らには悲哀を感じることすらもうできなかった。それは、あってはならないことだった。そのあってはならないことを、人類はやった。やってしまった。それは事実だ。だからこそ、我々は、やらねばならぬ。やっていかねばならぬ。
空の向こうを、また、鳥の羽ばたく音がした。長は待った。何かが訪れてくるのを待った。そして祈った。救いたまえ。神よ、救いたまえ。なにとぞ、救いたまえ。人類を、救いたまえ。
ああ…
長は目を開き、また深い風を吐いた。涙はまた彼の目に灯った。彼は目を細め、今日、その太陽を、地上に落とした、ひとりの人類の姿を、幻視した。それは影のようにうすっぺらな、ひとひらの紙の人形だった。その人形には、灰色の石を張り付けたような小さな目が二つあった。目は落ち着きなく、何かに脅える虫のように、きょろきょろと動きながらも、何も見てはいなかった。その奥に、魂の気配はなかった。彼はもはや、生きている人間ではなかった。生きてはいたが、もう生きてはいなかった。魂が、逃げてしまったのだ。その人間であることを自ら放棄し、生きることを魂がやめてしまったのだ。もはや、彼は人間ではなかった。魂のない空っぽになった肉体を、無数の怪が操っていた。彼はもう、いなかった。どこにも、いなかった。どこに逃げたのか。それを追うことは、しようと思えばできようが、今の長にはそれをする気にはなれなかった。
誰かがいつか、彼を見つけるだろう。いや、彼自身が、見つけてもらおうと、何かに姿を変えて、誰かに呼びかけることだろう。無限の孤独の亀裂に挟まれて動けない魂を抱いて、彼は今、どこをさまよっているのか。
「ひ、とるぇ、のく」…人類よ。どこを、さまよっているのか。あまりにも深い、闇の中、おまえたちは、どこをさまよっているのか。神が、探している。おまえたちを、探している。神の目に棲む、清らかにも白い、あの鳥が、おまえたちを求めて、永遠にも似た長い時を、探し続けている…。
長は再び、地上を幻視した。人間の作った太陽が、地上を車輪のように転がっていた。人間が、町が、その炎に巻き込まれ、無残な薪となって一層太陽を燃え上がらせていた。力高い聖者たちが協力し、水晶の氷で大きな紋章をその太陽の上に描いた。するとしばし、太陽は動きを止め、少し、小さくなったかに見えた。しかし、すぐに、紋章は端から折れ始め、見る間に砂のように崩れていった。聖者たちはもう一度、紋章を描いた。しかしまた、紋章は崩れた。太陽は地上を転がり続けた。凄惨な死の黒い影を無数に吐きながら、その炎は地に深く沈みこんだ。聖者たちは、自らの段階を超え、魔法を試みた。より硬く青い水晶の複雑な紋章を描いた。もはや彼らも、息絶え絶えだった。だがあきらめなかった。紋章は、太陽を、ひきとめた。太陽は、しばしとまり、しゅ、と音をたてて、縮んだ。
「い?」…いけるか?と長は言った。紋章は何分かは、もった。だが、すぐにぐらつき、朽ちた木の倒れるように、静かに崩れて行った。太陽はまたふくらみ、地上を転がり始めた。
「ひ、どみ!」長は目を閉じ、叫んだ。…人類よ!とうとう、おまえたちが、神に見捨てられる時が、来てしまったのか!
そのときだった。空が、くらん、と鳴った。長は、はっと目をあげ、空を見た。月が振動していた。薄紫の空の幕の向こうを渡る鳥が、雷鳴のような音を鳴らしながら、ぐるぐると空をかき回し、見えない風の渦を天に起こした。そして、ひときわ高く、月の鈴がもう一度、くらん、と鳴ったかと思うと、その渦の真ん中から、小さな瑠璃の種がひとつ、落ちてきた。はるか空の彼方から放たれた瑠璃の種は、鉛直の糸をひくように藍玉の地にまっすぐに落ち、かちん、と音を立てて地に沈み込んだ。長は震えながらも目を見開き、全てを見ていた。瑠璃の種は、すぐに芽吹き、青く細いつるをどんどんと伸ばし始め、そのつるは枝分かれしながら様々な曲線や直線を複雑に交差させ、無数の不思議な図形を空間に描き、ほんの数分のうちに、藍玉の地平の上に、巨大な球形をなした瑠璃の紋章を描いた。
「ゑる!」長は叫んだ。とたんに、彼のそばに、数人の上部人たちが現れた。
「ふ」「い」「しゅ」「き」会話は数秒で済んだ。長は上部人たちに使命を言い渡した。すぐに上部人たちはそこから姿を消した。それと同時に、瑠璃の紋章もそこから消えた。
長は、地上をまた幻視した。太陽はまだ地上を転がっていた。長は息を飲んで、待った。数分の時間が、何時間にも感じられた。やっと、瑠璃の紋章が、太陽の上に落ちてきた。太陽が、止まった。瑠璃の紋章は、しばし何かを憐れむように震えたが、太陽の激しい熱の回転にも砕けることなく、氷のように静かに、太陽の中に、沈み込んでいった。すると、太陽は、まるで、肥大した心臓のように赤くなり、どくどくと、鼓動し始めた。ふしゅりと、空気のもれるような音がして、太陽が縮み始めた。それは、地に沈みゆく夕日のようにも見えた。風が吹いた。長は太陽の様子を見守り続けた。一瞬、時間が止まったかのように、太陽が凍りつき、それは風に憐れみを請うように青ざめ、くらりとゆれた。聖者たちが太陽を囲み、魔法の紋章を投げながら鎮めの呪曲を歌い続けた。そしてどれだけの時間が経ったのか、気がつくと、太陽の表面に、ところどころカビのように黒い点が現れ始めた。そして、よほど時間を待って、ようやく、太陽は冷めて黒ずみ、萎えていく毒花のように、だんだんと内部から崩れ始め、よろよろと枯れて、崩れていった。太陽は、消えた。
とぅえ!
長は震える声で叫んだ。…ありがたき、ありがたき神よ!
焼けただれた大地の上に、やがて、闇に染まる黒い雨が降り始めた。太陽が地に振りまいた毒をわずかにも清めるための、雨であった。それは、地球の骨まで届いた惨い火傷を、かすかにではあるが、癒した。怨念の熱さえも、おののくほどの、恐怖が、雨のもたらしたひとときの静寂の中に沈み、怪物のようなその恐ろしく燃える目をうっすらと開いた。聖者たちは呪曲を歌いながら、数々の紋章を雨のように地に落とし続けていた。大勢の若者たちも、呪文を歌いつつ、死者たちを癒し導き続けた。やるべきことはまだたくさんあった。だが、最もすさまじい難局は、なんとかのりこえることができた。神の救いによって。
長は目を細め、幻の向こうに見える風景にまなざしを深く投げた。大地の上を、暗黒のきつい愚臭と邪臭が、おおっていた。長い長い時間をかけてまた、これを清めねばならない。我々は、やっていかねばならない。ああ、やろうとも。人類よ。おまえたちが何者であろうとも、我々は、愛している。おまえたちを、愛している。おまえたちが、何者で、あろうとも。
月の鈴が、また、くらんと鳴った。長は、空を見上げた。空の向こうにある何者かが、月を揺らし、鈴と鳴らして、一節の曲を、長に教えた。それは新しい清めの魔法の歌だった。それを聴いた長の胸が喜びに震えた。おお、神は、見捨てない。人類を、見捨てない。決して、決して、見捨てない!
長はその、月の鳴らす歌を覚え、それを自らの杖に吸い込んだ。そして、神に深い感謝の祈りをささげると、すぐにそこから姿を消した。自らも、地球に、向かうために。
人類よ、愛している。おまえたちを。長は、聖者の姿をとり、月の世を経て、地球に向かった。青い世界が、眼下に見えてきた。人類よ、愛している。愛している。
長は、神の教えてくれた新しい浄化の歌を、杖から鳴らしながら、地球上の、黒い邪毒の闇に染まったある一点を目指し、鳥のようにまっすぐに降りて行った。
愛している。長の目は朱色に燃え、涙にぬれていた。神よ、導きたまえ。すべてを、ごらんあれ。長の体を大気の板が打った。長は呪文を高く吐き、杖をひと振りした。杖は一層高く鳴り響き、その音は何本もの牙のような水晶の青い浄化のミサイルと変わり、その闇の黒い一点に向かって、ひゅうと音を鳴らしながら落ちて行った。
水晶の光が、闇を打った。闇が、苦悶の、悲鳴をあげた。