国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている。
ソランジュ・カロク夫人は、ピアノを弾く手を止め、背後に並んだ子供たちを振り返りました。カロク夫人は、音楽の先生で、小さな白い家に住んでいて、町の子供たちを集めて、合唱団を作っていました。今日はこの、国に古くから伝わる、小さな童謡を、みんなで歌って、練習していたのです。
「マダム・カロク、ピトが歌詞を間違えました」ひとりの子供が、隣の子供を指差して言いました。「ネズミじゃないよ、こりすだよ」「そんなことくらい、いいじゃないか、かわりゃしないよ」「大違いだよ、ネズミは木にはのぼらないだろ?」
喧嘩をはじめた子供たちに、カロク夫人は、手を腰に当てながら、きれいなアルトの声で、厳しく言いました。
「やめなさい、ピトにテト、間違いは誰にもあることよ。テトもそんなに何度も人を責めてはだめ。ピトも、間違ったら次には直せばいいことなのよ。みんな、乱暴なことを言ってはだめよ。それだけで、人の気持ちが苦しくなって、とても辛いことが起こってしまうの。ことばは、もっとやさしく使うものよ。そうでないと、みんなが困るのよ。さあ、今日は、あと一回だけ歌って、終わりにしましょうね。ピト、ちゃんと今度は間違えないようにね」
すると、ピトは、茶色の巻き毛を揺らしながら、素直にこくんとうなずきました。ピトは誰よりも、優しいカロク夫人のことが、大好きでした。
合唱の練習が終わると、子供たちは、わいわい騒ぎながら、それぞれにカロク夫人に挨拶して、帰っていきました。カロク夫人は、みんなが帰っていったのを見送ると、ひとつ、ほっと息をつき、微笑みながら、楽譜を閉じて、ピアノの蓋を閉めました。
カロク夫人が、夕食を終え、お茶を飲んでいたときでした。ふと、家の前の郵便受けの方から、ことんと言う音が聞こえ、カロク夫人は目をあげました。時計を見ると、もう七時を過ぎていました。こんな時間に郵便屋さんが来るものかしら? カロク夫人は首をかしげつつも、玄関を出て、郵便受けに向かいました。小さな筒の形をした郵便受けの中を見てみると、そこに白い小さな一通の封書がありました。カロク夫人はその封書を手にとって、家の中に入っていきました。封書には、表に「ソランジュ・カロク様」とだけ書いてあり、裏には、「ウジェーヌ・ポル」と小さく青い文字で書いてありました。
「ポルさん? どなたかしら、知らない名前だわ。でも、なんてきれいな字なのかしら。きっとすてきな方なのでしょうね。青いインクがとてもきれい。封書も、よく見ればまあ、白い鳩の羽根のようだわ」カロク夫人は、何かに引き込まれるように、自然に封書を開けました。中には一枚の小さな白い鳩の色のカードが入っており、そこにはこう書いてありました。
「ソランジュ・カロク様。
今宵八時、二番街の通り、北から三番目の胡桃の木の下にあるベンチでお待ちしています。とても大切な用があります。必ず来てください。 ウジェーヌ・ポル」
カロク夫人は時計を見上げました。まあ、二番街なら、今から行かないと間に合わないわ。なんてことかしら。カロク夫人は、何の疑問も持つこともなく、急いで上着を羽織ると、外に出て行きました。明るい月が、町を照らしていました。腕時計の針を見ながら、カロク夫人は急いで道を歩いていきました。
二番街に入って行くと、灰色の石畳の舗道に、胡桃の木の街路樹が並んでいました。月に照らされて、道は白く照り映えていました。北から三番目の木と言うと…あれだわ、カロク夫人は言いながら、少し小走りに駆けて行きました。その胡桃の木の下に、小さなベンチがあり、黒い帽子をかぶり、質素ながら品の良いスーツを着ているひとりの老人が、杖に手を預けて座っていました。カロク夫人は、二番街を何度も通ったことがありましたが、さて、あんなところにベンチなどあったかしら?と今初めて気付きました。でも、ベンチは確かにありました。カロク夫人は首を少しかしげながらも、ベンチに近づき、「ムッシュ・ポル?」と老人に声をかけました。すると、老人は白い髭を少し伸ばした顔をあげ、まるで懐かしい友達を見るような優しい瞳で、カロク夫人を見つめ、微笑みました。
「ああ、カロクさん、よく来てくれました。待っていましたよ。長い間、あなたを、さがしていたんですよ」
「わたしを、さがして?」
「ええ、ほんとうに、長い間」
そういうと、ウジェーヌ・ポル氏は、長々と深いため息をつきました。カロク夫人は、胸に疑問を抱きつつも、ポル氏がとても美しい声で、丁寧にことばを言うので、それが何やらこころよく、なんだかとても懐かしい友達に会えたような気がして、静かに、彼の隣に座りました。そして言いました。
「まあ、自己紹介もしていませんでしたわね。何かしら、初めでお会いする方ではないような気がしたものですから。失礼しました。ソランジュ・カロクと申しますの。親しい人は、ソルと呼びますわ」
「ああ、存じております。わたしは、ウジェーヌ・ポル。長いこと、この国の隅で、古本屋を営んでおりました」
「まあ、本を?」
「ええ、若いころから古書が好きでしてねえ。いろいろな本を扱いました。珍しい本があると聞くと、遠い町にも訪ねていったりしたこともあります。…けれども、ほかに、もっと大切な仕事が、ありましてね。滅多には、そんな遠いところにはいけなかったのですよ」
「まあ、大切な仕事と、おっしゃいますと?」
カロク夫人が尋ねると、ポル氏はまた深い息をつき、遠いはるかな昔を思い出すような瞳で、明るい月を見上げ、やさしく微笑みました。ポル氏は、歌うようなきれいな声で、言いました。
「バイオリンを、弾かねばならないのです。毎晩、毎晩。それも、とても難しいバイオリンでしてね。青いガラスでできているものですから、注意して扱わないと、すぐに壊れてしまいます。おまけに重くて、長いこと弾いていると、腕がしびれてくるのですよ。でも、そのバイオリンを弾かないと、とても困ったことになるものですから、とにかく、毎晩、弾かねばならないのです」
「まあ、それは、なぜですの?」
「地下室の、鳩時計が、とまってしまうからですよ」
「まあ、それは、困ったことですの?」
「ええ、とても、困るのです。何せ、時間が、止まってしまいますから」
ポル氏は、微笑みながら、静かに言いました。
カロク夫人は、しばらく黙って、ポル氏のやさしそうな横顔を見ていました。よく見ると、ポル氏は、本当に、とても年をとっておられて、息もしているのかどうかわからないくらい胸が細っており、冷たく青ざめた顔をしていました。カロク夫人の顔に、少し不安が横切りました。何か、とても、悲しいことが待っているような気がしました。ポル氏は、しばらく月を見上げて黙っていましたが、やがて、カロク夫人の方を振り返り、懐から小さな金の鍵を取り出して、それをカロク夫人の方に差し出しました。
「これが、地下室の鍵です。本当に、あなたに会えて、よかった。誰かが、時計をうごかさないと、時が止まって、皆が死んでしまうものですから。ああ、よかった。本当に。これは、とても、大切な鍵。別の名を、『誰も知らない王様の鍵』と、言います」
「誰も知らない王様?」
カロク夫人は、今日子供たちに歌わせた童謡のことを思い出し、少し驚きました。
「はい、わたしが、その、誰も知らない、王様なのです」と、ポル氏は言いました。「王は、いつも、地下室で、楽器を弾いていないといけないのです。そうしないと、みなが、困るのです。誰にも知られず、秘密でやらないと、いけません。誰かに知られると、バイオリンを壊されてしまうかもしれないので。ああ、あなたにだけ、言います。というのはもう、わたしは、バイオリンを、弾けなくなってしまうので、あなたに、次の王様を、やってもらいたいからです」
「わたしが? 王様を?」
「はい、あなた以外、できる人がいないのです。探していたのです。ずっと探していたのです。あなたに出会って、鍵を渡すまで、わたしは決して、死ねないのです。ですから、こうして、何とかして、生きてきたのです」
そう言うと、ポル氏は、悲しみと喜びの混じった深いまなざしで、カロク夫人の瞳を見つめました。カロク夫人はただただびっくりしていましたが、ポル氏が、とても真剣な顔をしていたものですから、まだよく事情はのみこめませんでしたが、ポル氏の差し出す金の鍵を、黙って受け取りました。すると、ポル氏は、安心したかのように、ほお、と長いため息を吐きました。すると、風船が縮まるように、少しポル氏の体が小さくなったような気がしました。
「よかった。これで、皆が助かる」そう言うと、ポル氏は、本当に、だんだんと小さくなって、しまいに、一枚の薄い影になって、するりと消えてしまいました。カロク夫人は、ベンチに座ったまま、ただびっくりしていました。さっきまでポル氏がいたベンチの上には、からっぽな風がそよりと吹き、月が静かな光を注いでいました。ふと、手のひらの上の、小さな鍵が、月の光をきらりと跳ね返して、カロク夫人に何かを語りかけました。すると、カロク夫人は、夢見るように、瞳の奥に、幻を見ました。どこか遠いところにある、白い部屋の中の白いベッドの上で、今まさに、心臓が花のようにしぼんで、死んで行こうとする、一人の老人が横たわっているのを。
「まあ、ポルさんだわ。ポルさん、いってしまうのね」カロク夫人の心が、震えました。そうして、ポル氏は、最後に、かすかに息を吸い込むと、本当に、いってしまいました。静かに、死んでいきました。すると突然、風がとまりました。ざわめいていた街路樹が、氷のように、動かなくなりました。カロク夫人はびっくりして、ベンチから腰をあげました。そして、町を歩きながら、町の様子を見ました。家々の窓の向こうで、人々が、人形のように固まって止まっていました。誰も、何も、動こうとしませんでした。月を見上げると、それもまるで空にはりつけた紙のように見え、まるで動いているようには見えませんでした。見ると、カロク夫人の腕にある時計の針も止まっていました。道の片隅で、一匹の猫が、後ろ足で飛び上がろうとした姿勢のまま、凍りついてとまっているのを見つけました。世界中で、動いているのは、カロク夫人だけでした。
カロク夫人は、何かにかきたてられるように、走り始めました。急がなければ。早くしないと、みんなが死んでしまう。カロク夫人は、家に向かって足を速めました。鍵を握りしめた手が、熱く燃えていました。
そしてカロク夫人が家に帰ると、普段、花の絵が飾ってある、台所の隅の壁に、見知らぬ青い扉ができていました。カロク夫人には、もうわかっているような気がしました。鍵が、みな、教えてくれたような気がしました。カロク夫人は、鍵を、その扉の鍵穴に、さしこみ、かきりと、回しました。扉はゆっくりと開き、その向こうに、地下に向かって降りてゆく、白い階段が、見えました。
カロク夫人はゆっくりと階段をおりてゆき、いきついたところにある白い扉を開けました。すると小さな地下室がありました。そこには不思議な窓があって、地下室だというのに、その向こうに、明るい月が、見えました。窓辺には、小さなこりすの人形がおいてありました。そして、その窓の下には、もう壊れて、弾けなくなった、青いガラスのバイオリンがありました。カロク夫人はバイオリンを持ちあげると、その重みと、あまりに壊れやすそうなやわらかさに、驚きました。ああ、ポル氏はずっとここで、このバイオリンを弾いていたのね。
カロク夫人は、バイオリンの、ただ一本残った弦に、そっと手を触れました。すると、花のため息のような優しい音が、かすかに星の咲く薫りのように耳に触れました。すると、カロク夫人の頭の中に、ふと、懐かしい記憶が蘇りました。ああ、それはよく、夜風にまじって、まるでさざ波のようにやさしく、カロク夫人の耳に聞こえてきました。空耳かしら? でも、確かに何か聞こえるわ。カロク夫人は時に、風に耳を澄ましました。するとどこか遠くから、それは澄んだ、やさしい音楽が、カロク夫人の耳元に流れてきたような気がしたのです。それは、聞いていると、なんだか胸にぽっと灯りがともって、本当に生きているのが楽しくなって、いつも笑っていてしまいたくなるような、とてもやさしい、きれいな音楽でした。
ああ、あれは、ポルさんが弾いていたバイオリンの音だったのだわ! カロク夫人にはようやくわかりました。
ああ、でも、わたしは、わたしは、どうしたら、いいのかしら? カロク夫人はバイオリンをまた元の場所におきました。ふと気付くと、壁に、小さな鳩時計があり、その時計もまた、止まっていました。
カロク夫人は、はたと思いいたりました。ピアノだわ。ピアノなら、弾けるわ。そう、カロク夫人が言うと、ガラスのバイオリンが、ことんと震えました。そしてそれは、見る間に、大きく青い影のように広がって、ひとつの青いガラスのピアノに変わりました。
カロク夫人は息を飲みました。胸に手をあてて、おそるおそる、ピアノの蓋を開けました。透き通ったガラスの鍵盤が、並んでいました。ちょっとでも力加減を間違えれば、みなこわれてしまいそうなほど、とてもやわらかそうな、鍵盤でした。これは、ほんとうに、優しく優しく、弾かねばならないわ。赤ちゃんにさわるよりも、もっと優しく、弾かねばならないわ。カロク夫人は、ごくりと唾を飲み込むと、とにかく、指で、はかない花の薄い花びらにおそるおそる触れるように、そっと軽く鍵盤を押してみました。ぽんと、快い音が鳴りました。すると、窓辺のこりすが、かすかに、動きました。
そう、ほんとうにやさしく、一枚の風さえ傷つけないように、やわらかな指で、弾かねばならないのね。ポルさんは、ずっと、そうしていらしたのね。なんてやさしい人だったんでしょう。
ああ、わたしも弾かなくては。カロク夫人は思いました。そして、指を、風の中を踊るように、やさしく、やわらかく、動かしながら、ガラスを壊さないように、とてもたいせつに、愛をこめて、ピアノを、弾きました。弾きながら、歌を歌いました。
国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている。
カロク夫人が、ピアノを弾き始めると、鳩時計が、動きだしました。外の世界では、風が吹き始めていました。凍りついていた木々が、ざわめき始めていました。月がゆっくりと傾き、町を明るく照らしました。命がしばしとまっていた町の人たちも、動きはじめました。猫も、ぴょんと、とび跳ねました。時間が、動き始めたのでした。
カロク夫人は、ピアノを弾き終わると、静かに鍵盤から手を離しました。鳩時計がいつの間にか、動きだし、小窓から白いこばとが飛び出して、一声、ぽう、と鳴きました。こりすの人形が、回りながら、踊っていました。不思議な月の光が、地下室の中を流れました。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
カロク夫人は、小さな声でまた歌いました。カロク夫人は、それから毎晩、地下室を訪れては、誰にも知られず、ひそやかに、ピアノを、弾き続けました。そして、今も、弾いています。時間がとまって、みんなが困らないように。
ないしょの、話です。誰にも言っては、いけませんよ。
(おわり)