ミュリエラ・コペル嬢は、真夜中の遅い時間、ことことと、銀色のミシンを回していました。お父さんの形見の、黒いコートを、小さい弟のために縫いなおし、かわいい上着を作っていたのです。銀色の古いミシンは、お母さんの形見でした。
コペル嬢のお父さんとお母さんが、事故でいっぺんに死んでしまったのは、五年も前のことでした。そのとき、弟のチコルは、まだ赤ちゃんをやっと卒業したくらいの年でした。コペル嬢は、小さな弟を育てるために、学校をやめ、小さな縫製工場で働きながら、町の片隅の小さなアパートの一室で、幼い弟を育てていました。
夜空の月が首をかしげて、窓からコペル嬢を覗きこむような顔をする頃、上着はやっと縫いあがりました。これから寒くなるので、しっかり体を温かく包むことができるように、裏地もちゃんとつけて、コートの袖にあったボタンを、ポケットに縫い付けて飾りました。コペル嬢は縫物が大変上手でした。亡くなったお母さんが、教えてくれたからです。
時計が午前一時を打ったので、コペル嬢は、上着をミシンの横の小さな机の上に置き、自分も眠ることにしました。そしてベッドの片隅に寝る、小さな弟の額にそっとキスをすると、自分も静かにその隣に寝そべって、毛布をかぶりました。…夢の中で、あの人に会えるかしら? コペル嬢はふと思いました。うとうととまどろみ始めたコペル嬢の耳に、かすかに、星を揺らすような不思議な透明な音楽が聞こえました。コペル嬢は夢の中に溶けていくように、眠りました。
夢の中で、コペル嬢は、誰かがどこかで歌っている、不思議な声を聞きました。
国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている…。
次の朝、コペル嬢は、さっそく、新しい上着を弟に着せてみました。その上着は、弟のチコルの体に、ぴったりとあいました。弟はとても喜んで言いました。
「あったかいね。おとうさんみたいだね」
「ええ、おとうさんが、くれたのよ。だから、あったかいのよ」
「ぼく、たいせつに着るよ。絶対に、転ばないようにしよう。やぶれたら、こまるものね」
ミュリエラ・コペル嬢は、弟が嬉しそうに上着を着て床をはねるのを、喜んで見ていました。コペル嬢は、弟に、お昼ごはんは戸棚に置いてあるから、おとなしくして待っていてねと言って、近くにある縫製工場へとでかけていきました。チコルは少しさみしそうな顔をしましたが、しっかりした声で、「うん、ちゃんと待ってる」と言いました。
町は、冬でした。もうすぐ、クリスマスがきます。コペル嬢は工場への道を急ぎながらも、チコルに小さなプレゼントをしてあげたいと考えていました。けれども、コペル嬢が稼ぐことのできる少ないお金では、とても、高いおもちゃなど買うことはできませんでした。でも、クリスマスくらいは、なんとかしてあげたいと、コペル嬢は思っていました。コペル嬢は縫製工場のミシンを一心に踏んで、誰かの胸を温めるだろう小さなシャツを何枚も一生懸命に縫いました。お給金が少しでも増えたらいいのに、と考えがよぎりましたが、贅沢を言ってはいけないわ、とすぐに思い返しました。とにかく、何とかお金を工夫して、少しでも弟が喜ぶものを、買わなくては。コペル嬢はミシンを踏みながら考えていました。
ある休日のこと、コペル嬢は、小さなチコルを連れて、町にある小さな商店街を歩きました。何か、そんなに高価でなくて、チコルの喜びそうなものはないかしら?とコペル嬢は考えながら、商店街のウインドゥをのぞいていきました。商店街には、欅の並木があって、葉を落とした裸の枝を、寒い風に揺らしていました。コペル嬢は弟の手をぎゅっと握っていいました。
「寒くはない?チコル」
「うん、寒くないよ。お父さんのくれた、上着があるから」
「そうね。あったかいわね」
コペル嬢はやさしく弟に笑いかけました。弟はお姉さんとでかけられることが嬉しくて、本当はちょっと寒かったのだけど、あったかいと言ったのです。もっといい上着を買えたらいいのにと、コペル嬢は思いました。自分の上着も、そう寒さを防いではくれませんでしたから、弟の上着もそうだろうと思ったのです。
そのとき、誰かが、コペル嬢に声をかけてきました。
「やあ、こんにちは、マドモワゼル・コペル」振り向くと、そこに小さな古書店があって、その主人である、ムッシュ・ポルが、手を振りながら、コペル嬢に笑いかけていました。
「ずいぶんと寒いですねえ。どうです、中にはいりませんか。ちょうど、いいお茶を手にいれたところでしてねえ。いっしょに飲んでくれる相手を欲しがっていたところなのです。それは良い香りのお茶で、誰かと一緒に飲んで、喜んでもらわなければ、もったいないようなものなもので、よろしかったらしばらく、わたしの相手をしてくれませんか」
コペル嬢は、戸惑いましたが、チコルの方が先に飛び出して、大喜びで、古書店の中に入ってしまいました。コペル嬢は仕方なく、ポル氏にお礼を言いながら、店の奥で、お茶をいただくことにしました。
古い本の詰まった書棚の並ぶ書店の奥に、小さな扉があり、その向こうに狭いキッチンがありました。ムッシュ・ポルはもう、薄い緑色の薔薇模様の小さなカップに、温かいお茶を注いでいました。「チコルには、ミルクをたっぷり入れてあげよう。これは外国から取り寄せた特別なお茶でね、子供にもとてもいいんだよ。体がとても温かくなる」ポル氏は、とてもやさしそうな声で言いました。チコルは、ポル氏が大好きでした。ポル氏は、本当にやさしくて、とてもきれいな声で、いつも歌うようにやさしいことを言ってくれるからです。
「ありがとうございます。ごちそうになりますわ」コペル嬢も、キッチンの小さな椅子に座ると、テーブルの上のお茶を喜んでいただきました。お茶は、薔薇のような、ほんとうに良い香りがして、まるで心が溶けていくようでした。何かが芯から温まって、寒い心に一枚、透明な温かい上着を着せてもらったような気がしました。コペル嬢は、何やら安心して、つい、ポル氏に言ってしまいました。
「もうすぐクリスマスですわね。ペール・ノエルにわがままを願って、何かいいものを、弟に下さらないかと、考えているのですけれど…」
するとポル氏は、灰色の髭をなでながら、少し首をかしげて、しばし何かを考えるような顔をしました。
「そうですねえ。きっと、願いはかなうでしょう。チコルは、本が好きだったねえ」
「うん、好きだよ。お父さんが買ってくれた本を、まだ持っているよ。小さな虫の本だよ。きれいな虫の絵がいっぱい描いてあるんだ。お話の本もあるよ。頭のいい小さなヤギがね、こわいゴブリンをやっつけるんだ」
ポル氏は、チコルに、小さなビスケットをあげました。チコルは大喜びで、それを食べました。コペル嬢は、お礼も言わないで食べるんじゃありませんと、ちゃんと弟をしかりました。チコルは、素直に、ごめんなさい、と言いながら、恥ずかしそうに、半分かじったビスケットを手に持って、ポル氏の顔を見上げました。ポル氏はただ、いいんだよ、と笑って言いました。
ひととき、温かいお茶とお菓子をいただき、体と心を温めてもらった後、コペル嬢は深くポル氏にお礼を言って、弟を連れて奥のキッチンから出ました。すぐに外に飛び出していったチコルを追おうと、コペル嬢が駆け出そうとしたのを、ポル氏が呼びとめました。
「マドモワゼル、すまないが、少し助けてくれませんか」
「え?」と言って、コペル嬢が振り向くと、ポル氏は、一冊の本を、コペル嬢に差し出しました。
「これは、最近、ある引っ越した家から引き取った本なのですが、ちょっと傷みがあるものですから、売り物にならないのですよ。捨て場所にも困るもので、仕方なく置いてあったのですが、よかったら、ひきとってはもらえませんか。そうしてもらえたら、助かるのですが」
ポル氏が差し出した本は、きれいな動物や鳥の絵がいっぱい描いてある、古い図鑑でした。表紙のふちに少し傷がありましたが、コペル嬢は、目を輝かせました。きっとこれなら、弟が喜ぶわ、と考えました。
「いいのですか? 少しなら、お金はありますのよ。安いものなら、わたし買えますわ」
「いや、どうせ捨てるものですから。どうかもらってください。その方が、わたしには助かるのです」
ポル氏が、どうしてもというので、コペル嬢は、喜んでその本をいただき、それを持っていたカバンの中にそっと隠しました。
「ペール・ノエルに乾杯しましょう」とポル氏は言いました。「ええ、おやさしき神様に」とコペル嬢は言いました。そうしてコペル嬢は、ポル氏にお礼と挨拶をすると、あわてて弟を追いかけていきました。明日、仕事からの帰り、文具屋さんによって、きれいな包み紙を買いましょう。リボンも少しいるわ。それだけなら、なんとかなるわ。ああ、よかった。コペル嬢は、弟の手を握りながら、温かい思いを胸に抱きしめました。
家に帰ると、コペル嬢は弟に夕御飯を食べさせ、一休みした後、またミシンに向かいました。そしてミシンの横にある籠の中の、はぎれの山を探りました。そのコペル嬢に、チコルが、小さな声で言いました。
「ねえ、お姉さん、あの人でしょう? 誰も知らない王様って」
それを聞いたコペル嬢は、驚いて、弟を振り向きました。
「まあ、チコル! どうしてそれを知ってるの?」
「おかあさんが、教えてくれたんだよ」
「まあ、そんなはずはないわ。だっておかあさんが死んだとき、あなたはまだ赤ちゃんだったじゃないの」
「うん、ぼくはそのとき、乳母車の中にいたんだ。でも、おかあさんの言うことがね、ぼく、わかったんだよ。ほんとさ。おかあさんはね、ポルさんのことを指差してね、ぼくにこう言ったんだよ。『ほら、あの人が王様よ。でもね、これは、ほとんど誰も知らないことなの。知っているのはね、ほんの少しの人だけよ。ポルさんも、わたしたちが知ってることは知らないわ。小さなチコル、大きくなったら教えてあげるわね。バイオリンの音が聴こえる人だけ、知っているのよ。誰も知らない王様が、誰かと言うことを』…」
コペル嬢は、ただただびっくりしていましたが、チコルを強く抱きしめて、言いました。
「チコル、不思議なことね。でもそれは、決して誰にも言ってはいけないのよ。もう、決して言ってはだめ。知っていても、誰にも言ってはいけないことなのよ」
「うん、わかった。ぼく、誰にも、何も言わないよ」
コペル嬢は、小さなチコルを、ベッドに寝かしつけると、またミシンの横の籠に向かいました。そして籠の中から、小さな青いはぎれを取り出しました。
コペル嬢はその青い布で、ポル氏のために、小さなブックカバーを縫おうと思っていました。
コペル嬢が、寸法を測り、布の上に印をつけ終わったころ、窓の向こうから、風に乗って、透き通るような、バイオリンの音が、聞こえてきました。コペル嬢ははっと窓を振り向いて、外を見ました。まるで、絹のように薄くしたガラスのカーテンに、そっと触れて揺り動かしても、決してそれを壊すことはないような、とてもやさしい、やさしい、やわらかな、美しい音楽でした。その音を聴いていると、コペル嬢の胸の中で、ことことと、温かい小鳥のようなものが動き出し、とてもそれが幸福で、コペル嬢は、どんなにつらくても、明日もちゃんと、前をむいて、りっぱに生きていけるような、気がするのでした。
国には不思議な王様、住んでいる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
こりすが踊って、歌ってる。
誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。
しろかねのお月さん、聴いている。
黙ってそれを、聴いている。
王様、ひとりで笛を吹いている。
カチカチ鳴るは、金時計。
こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。
王様、笛を吹いている。
ひとりで笛を、吹いている…。
コペル嬢は、かすかな声で歌いました。誰も知らない王様を知っているのは、あのバイオリンの音を聴くことができる人だけ、それも、ポルさんに会ったことがある人だけよ。それを教えてくれたのは、亡くなったおかあさんでした。なんで弾いているのかは、誰も知らない。けれど、王様がバイオリンを弾かないと、とても困ることになるんですって。王様は、自分のことは誰も知らないと思っているから、誰にもこのことを言ってはだめよと、おかあさんはそのとき、教えてくれました。
ポル氏は、今夜も弾いているのだわ。あの美しいバイオリンの調べを。
コペル嬢は、窓の向こうから流れてくるバイオリンの音に耳を澄ましながら、思いました。そして、銀色のミシンに向かい、自分もその音に合わせるようにやさしく、ことことと、ミシンを踏みました。
青いブックカバーを、ポル氏は喜んで受け取ってくださるかしら。コペル嬢は、まるで宝物に触れるように、銀のミシンを、やさしく動かしました。その音を子守唄に、チコルはベッドの中ですやすやと眠り、夢の中で、こりすといっしょに、踊っていました。
(おわり)