風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

エジプト旅行 7日目 その4(ルクソール神殿)

2009-12-28 | エジプト個人旅行記
カルナック神殿から南へ2.5kmのところにルクソール神殿はある。

17:45 ルクソール神殿到着。

早速観光開始。


(ルクソール神殿全体 右側は中庭の列柱室)

上の写真の左右を詳しく見てみると
少し左に1本の高さ25mのオベリスクとラメセスⅡ世像が見える。


(見にくいが壁際にラメセスⅡ世像がある)


(右側の中庭の列柱室)

さらにオベリスクに近づくと、そこは第一塔門であり
ラメセスⅡ世像とオベリスクの台座がはっきり見える。


(第一塔門 右にラメセスⅡ世像とオベリスクの台座)

上と同じアングルで170年前にデビッド・ロバーツは絵を描いており
比較してみるのは非常に興味深い。


(170年前の第一塔門
手前に窪みが見られる)

この絵によると、すでにオベリスクは1本しかたっていない。

絵をよく見ると手前に窪みがみられ、それはもう一本のオベリスクを
持ち出すために掘り出した跡のようだ。

さらに当時(1838~39)はかなりの部分が土砂に埋もれており
片方のオベリスクの台座は見えない。

ラメセスⅡ世像も胸まで埋もれていたようだ。


(170年前のラメセスⅡ世像)

ラメセスⅡ世の顔面は170年前から破損していたようだ。


(現在のラメセスⅡ世像)

1本しかないオベリスクには歴史的物語がある。

もう1本は、フランスのオポレオンが、オスマン朝支配下にあったアラブ諸国の中で、
一番早く近代化の基礎を築いたと言われているムハンマド・アリに
当時としては珍しい大時計をプレゼントしたが、
イスラム教徒として義理堅いアリはそのお礼としてナポレオンに贈ったと言われている。
(ムハンマド・アリはガーマ・ムハンマド・アリを建てたことでも有名である。
詳細はカテゴリー:エジプト個人旅行記、
タイトル:エジプト旅行 3日目 その1(イスラーム地区)を参照ください)

アリはほとんど冗談で、持っていっていいといったようだが、
ナポレオンは軍隊を動員して本当に持ち出してしまったという。
デビッド・ロバーツが訪れる6年ほど前の1833年のことらしい。

そしてそれは現在パリのコンコルド広場に立っている。

少しオベリスクに触れる。

オベリスクはギリシャ語に由来し、「針」、「小さな串」を意味しているそうだ。
起源は、太陽信仰のヘリオポリスのベンベン石を模式化したものと考えられており
神殿の入り口の両脇に太陽の象徴として立てられたらしい。

石は一枚岩でアスワンから切り出された。
(オベリスクの製作についてはカテゴリー:エジプト個人旅行記、
タイトル:エジプト旅行 5日目 その2(切りかけのオベリスク ハイダム イシス神殿)を参照ください)

オベリスクは見ているとそのとぎすまされた美しさが魅力である。
ピラミッドやレリーフのセンスと同様の洗練された意匠を感じる。

オベリスクを見た権力者の多くもその魅力に惹かれて、
自分の国に戦利品として略奪の対象とし持ち帰ったのだろう。

それは古代ローマ時代から行われており、4世紀に首都となった
コンスタンティノポリスの競馬場にもオベリスクが運ばれ、現在のイスタンブルに残っている。

その後も略奪は続き、欧米の公園や広場の装飾品とされた。

先のパリのコンコルド広場や、バチカンのサン・ピエトロ広場にあるものは、よく知られている。

その結果、エジプト国内に残されているものは、カルナック神殿やルクソール神殿など、
ほんのわずかな数となってしまった。

見学を続けるため、第一塔門を入ると、中庭、列柱廊、第二塔門と続く。


(中庭の列柱)



なぜかヒエログリフも描かれている。


(ピエログリフ)


(レリーフ)


(第二塔門の列柱廊)

一部には色彩の残ったレリーフも見かけられた。


(かすかに色彩の残るレリーフ)

石材に人工的な溝が刻まれたものも見られる。
これは割れた石の補修を行ったものらしい。


(溝を利用して補修したらしい)

20:00 観光を終えて船に戻る。

22:30 夕食を終え就寝

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エジプト旅行 7日目 その... | トップ | エジプト旅行 8日目 その... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

エジプト個人旅行記」カテゴリの最新記事