風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

エジプト旅行 8日目 その1(ルクソール西岸 王家の谷)

2010-01-04 | エジプト個人旅行記
5月25日 晴れ

5:30 モーニング・コールで強制的に起こされる。

早速、朝食をとる。

6:30 出発。

我々の船はルクソール東岸に停泊しているため、西岸に20人乗りほどの
小型船で行く。


(小型船より 向こうが西岸)

小型船を降りると既にバスが待っていた。

我々は最初に王家の谷に向かう。

バスの中でガイドのオールド・ハッサンより王家の谷の発掘には
日本の協力があることが説明された。
何人かが我々の方を見て微笑む、軽く手を上げて応える。



(王家の谷 あのあたりが岩窟墓か)

新王国時代(紀元前17世紀型頃)になるとファラオ(王)たちは、
盗掘を防ぐためにルクソール西岸の奥深い谷に死後の安住の地を求めたようだ。
これが有名な王家の谷である。


(王家の谷到着)

王家の谷では現在まで、64の墓が発見されている。

しかし、1922年にイギリス生まれの考古学者ハワード・カーターによって
発見されたツタンカーメン王以外の墓はすべて盗掘を受けているそうだ。

盗掘は紀元前2000年頃から行われていたらしい。
紀元前1100年にテーベの政府は盗掘団の摘発をおこなった
その裁判の大規模な記録が残っている。
一般人だけでなく墓所の管理役人も盗掘に加わっていたという。

この王家の墓の近くに古くから盗掘村として有名なクルナ村がある。
現在はアラバスター(石膏)を加工して土産物を売る生活をしている人が多いが、以前は住民の殆どが王墓からの盗品を売って生計を立てていたそうだ。
盗掘も一つの職業で、紀元前13世紀以降は家業として代々受け継がれたという。

1881年にクルナ村のアブドウル・ラズル家を訊問した結果、
古代の偉大なファラオ達のミイラが井戸のそばに雑然と放置されているのを発見し、
1週間後、二百人の作業員によってカイロの博物館に運ばれたといわれている。

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(模型)

模型をみると山々の連なりは舟形を示しており、山々は天に届くピラミッドを想起させ
この地がファラオたちにとって安住の地と思わせた影がうかがえられる。

ツアー仲間のアメリカ人がこちらに来いというので付いていくと
そこには日本の協力を示すレリーフがあった。

ちょっと鼻が高い。


(日本の協力を示すレリーフ 右はエジプト国旗)


(一部日本語のポスター)


(手前は舟形になっており、山は天に届くピラミッドを思わせる)

中は撮影禁止


(墳墓入り口 中は撮影禁止である)


(各々の墓には誰のものかを示す標識がある)



ところどころで人々が作業しているのが見かけられる。
今もなお発掘中のようだ。


(今も発掘中)


(発掘中の墓)

いくつかの墳墓を見学したのち、ツタンカーメン王の墓にたどり着く。


(ツタンカーメン王の墳墓であることを示す標識)

カイロのエジプト考古学博物館にはツタンカーメン王墓から発見された
豪華な副葬品が展示されている。

ツタンカーメン王は18歳で早世したため権力は弱く、
墓は質素で王家の谷の中でも最も規模が小さいが、
1922年の発見時、小さな玄室の中に数々の宝物が入っていたことを考えると、
他のファラオの墓にはどれほどの宝物が入っていたのか想像もつかない。

ツタンカーメンの墓も完成後すぐに盗掘にあっているが、
盗人は内部を引っかきまわしわずかな宝を持ち去っただけだったようだ。
その後墓地の番人たちによって盗賊に空けられたトンネルをふさぎ、封印し直した。

さらに百年後、近くにラムセスⅥ世の墓が築かれたので、
その作業でツタンカーメン王墓の上には土砂や瓦礫がうず高く積まれ、
そこに住居などができていた。
それが今日まで盗掘を免れてきた原因らしい。


(ツタンカーメン王墓 入り口)


(内部を示す標識)


(遺物を示す標識)

ツタンカーメン王の墓の内部に入るには、高額の入場料が別途必要であることと
中には小さな部屋があるだけとのガイドの説明を受け、中には入らなかった。

そして我々は王家の谷を後にし、ハトシェプスト女王葬祭殿へと向かった。

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