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日清戦争

2006-01-07 11:07:49 | 読書備忘録
中国の歴史:中国小学校社会教科書④ 中国歴史教科書による日清戦争

日清戦争時に海戦で勇敢に戦った中国指揮官を英雄視した記述と日本軍に関する記述に興味を覚えた。抜粋する。

1894年、日本は我が国に対して、侵略戦争を起こした。この年は旧暦で甲午の年に当たるので、この戦争を甲午中日戦争と称する。

1894年9月のある日、我が国の北洋艦隊がちょうど鴨緑江(おうりょくこう)口の黄海の大東溝(だいとうこう)を航行しているとき、日本艦隊の襲撃に遭い、迫られて応戦した。
たちまち、黄海の海面は砲声が天をふるわせ、硝煙が立ちこめた。

(中略)致遠艦の管帯(今日の艦長)であるとう世昌(とうせいしょう)は(中略)勇敢に敵をやっつけた。軍艦が何カ所も被弾して大きく傾いて危急の時に、彼は全速力を出すように命令し、日本軍の主力艦目指して突進し、衝突して沈めようと試みた。彼は部下に「私たちは従軍して国を守っている。生死はとうに度外視している。私たちは犠牲になっても国威を盛んにできるならば、祖国に報いる目的を達せられる」と言った。

日本軍は形勢不利と見て、腰を抜かして艦を操って逃走し、逃げながら魚雷を発射した。(中略)日本艦はついにあわてふためいて逃走した。黄海大戦は中国人民が侮りがたいことを、はっきり示している。

(ここでの腰を抜かして、あわてふためいての表現に注目。物語風に記述されている。)

黄海大戦後、清朝政府は妥協投降政策をとったので、前戦での戦況は不利になり、続けざまに敗北した。日本侵略軍は長駆して一気に攻め込み、陸海両路から中国に侵入した。

1895年初め、日本の陸海両軍は北洋艦隊の駐屯地、威海衛軍港を挟撃した。あろうことか清朝政府は、北洋艦隊が港を出て迎え撃つことを許可しない命令を下した。その結果軍港内で全軍が壊滅してしまった。

日本侵略軍はたえず侵略範囲を拡大し、(中略)広大な領土を占領した。清朝政府は日本に和議を求めた。交渉の席上、日本代表はいわゆる「和議」条項を横暴に打ち出して、清朝政府代表に書名を強制した。腐敗した無能な清朝政府は、今にも崩れ落ちそうな統治を維持するために、なんとこの主権を失う国辱的な中日{馬関条約(下関条約}を受け入れた。条約は台湾、澎湖列島等を日本に割譲するなどと定めていた。馬関条約の広大な領土の割譲と、巨額の賠償金は、中国を国家民族の滅亡の危機に直面させた。

(清朝政府の、無策無能を徹底的に叩いている)


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