金沢市南部の野田山の一角にロシア人墓地があります。ロシア協会では、毎年
8月の第1土曜日は、10基の墓前で慰霊祭をおこなっています。

日露戦争の終結とともに1905年に約6000名の旧ソ連の捕虜が金沢に連れて
こられました。そのうち10人が病気で亡くなり故郷に帰れない方のお墓ができ
ました。1965年、野田山の県戦没者墓園の一角に崩れかけそうに建っていたお
墓を改修しようと、日ソ協会石川県連合会(当時の名称)の会員有志が、仕事の合
間を縫いながら、ブロックやセメントを手押し車や肩にのせて運び、作業に従事
しました。その後、婦人部が提唱し、毎年8月に、会員が集まり、清掃と慰霊をし
、ロシアの歌を歌いながら、再び戦争を繰り返さないとのささやかだけど、毎年
継続されています。

9墓の上部には十字のマーク、1基は月のマークが彫り込んであります。一人は
おそらくイスラム教徒だったのでしょう。石川県を訪問する在日ロシア大使も、
訪れ墓参しますし、70年代ー80年代に、金沢港に旧ソ連の観光客が来ると、
訪問するスケジュールも組まれました。
ロシア人の墓地は全国でも数少なく、ましてや慰霊祭をおこなっているのは珍
しいくらいです。
今年の8月3日は、会員で神主のNさんの主導のもと、墓前に米や果物、お酒、
ウオッカなど供え、玉ぐしでお参りしました。歌詞カードがなかったのですが、
「灯」(ロシア語でアガニョーク)も歌いました。
8月の第1土曜日は、10基の墓前で慰霊祭をおこなっています。

日露戦争の終結とともに1905年に約6000名の旧ソ連の捕虜が金沢に連れて
こられました。そのうち10人が病気で亡くなり故郷に帰れない方のお墓ができ
ました。1965年、野田山の県戦没者墓園の一角に崩れかけそうに建っていたお
墓を改修しようと、日ソ協会石川県連合会(当時の名称)の会員有志が、仕事の合
間を縫いながら、ブロックやセメントを手押し車や肩にのせて運び、作業に従事
しました。その後、婦人部が提唱し、毎年8月に、会員が集まり、清掃と慰霊をし
、ロシアの歌を歌いながら、再び戦争を繰り返さないとのささやかだけど、毎年
継続されています。

9墓の上部には十字のマーク、1基は月のマークが彫り込んであります。一人は
おそらくイスラム教徒だったのでしょう。石川県を訪問する在日ロシア大使も、
訪れ墓参しますし、70年代ー80年代に、金沢港に旧ソ連の観光客が来ると、
訪問するスケジュールも組まれました。
ロシア人の墓地は全国でも数少なく、ましてや慰霊祭をおこなっているのは珍
しいくらいです。
今年の8月3日は、会員で神主のNさんの主導のもと、墓前に米や果物、お酒、
ウオッカなど供え、玉ぐしでお参りしました。歌詞カードがなかったのですが、
「灯」(ロシア語でアガニョーク)も歌いました。