谷善こと谷口善太郎さんは、京都選出の日本共産党衆議院議員で「京のまち 京のひ
と谷善の顔がある」と蜷川知事にも称賛された京都代表と同時に党議員団長もつとめ
ました。この谷口善太郎は石川県辰口の出身。石川でも毎年碑前祭が執り行われ、
40回目の今年、参列しました。
谷口は1899年(明治32)に在の能美市和気町に生れまし
た。白山山脈と加賀平野に挟まれた山あいに100戸あまりの集落で3反(持地と小
作)足らずの水呑百姓でした。6人きょうだいながら、4人亡くなり、姉と善太郎の
2人のみ。小学4年から5年間は九谷焼の工場で働きながら学びました。担任の影響
で読書会に参加、芥川・菊池などの本に接すると共に啄木を知り、自分の内部に目を
向けるようになりました。大きくなり、京都に出て清水焼の工場に勤めます。大学に
行き、弁護士になろう、その入学費かせぎです。第一次大戦後の不況で工賃引き下げ
など労働争議がおき、この中で労働運動に参加、本をむさぼるように読みました。労
働運動の中で党に加わり、山本宣治、川上肇らとの出会いがありました。谷口は、須
井一、加賀耿二(こうじ)のペンネームでプロレタリア作家としても活躍しました。
政治家として、6期15年衆議院を務めた谷口は、地元京都の街と伝統産業を守るた
め奮闘しました。同時に「日本の夜明けは京都から」と呼ばれる統一戦線と民主府政
を支える活動にも力を注ぎました。
京都と辰口の記念碑には「守道不封己」と刻まれています。これは杜甫の詩からとっ
たもので谷善はとても気に入っていました。
エピソードを追悼演説で自民・田中伊三治議員が紹介していま
す。谷口さんは色紙で「不封己」と書くが、これは杜甫の「道を守って己を封(あ
つ)うせず」の一句、つまり共産主義者たるものは利己心があってはならぬという意
味、ついつい辛い思いをなぜ自分だけがに陥らぬように、自分の身を引き締めている
と。挨拶の機会を得て、このエピソードとともに、昨年国民連合政府提案のとき、臨
済宗の有馬管主が「我見離れるべし」として自己主張を脇においてもまとまることの
仏法の教えに即しても、共産党のとった態度を評価されたこと、その活動が今、全国
で一人区で野党共闘が成立し、国民の運動が広がっており、この歴史的たたかいに勝利
するため、貢献したいと決意をのべました。選挙まじかで参加できませんでしたが、
市田、穀田、井上、倉林の京都ゆかりの国会議員、酒井能美市長らのメッセージも紹
介されました。何の催しと覗き込んだ通りすがりの親子づれ、主旨を聞き、献花もし
てもらいました。
この日、午前は建交労北陸ダンプ分会の総会で挨拶の機会いた
だき、石川で広がる野党共闘と勝利、日本共産党の政策の一端紹介して、選挙での支
援をお願いしました。夕方は、地域支部を訪問し、選挙勝利に力あわせようと懇談も
いたしました。