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死刑について:12月7日の執行と法務大臣の発言(2)

2007-12-11 00:26:51 | Weblog
(前回から続く)

 ところで,今回の死刑執行で,鳩山法務大臣は,個人の意見は意見として,大臣の立場での職責を果たしたということになるのだろうが,就任以来,物議を醸した死刑問題についての発言はどうなったのだろうか。

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 既にニュースサイトからもほとんど消えてしまっているが,およその経過は,9月25日午前,阿部内閣総辞職の際の記者会見で,判決確定後6か月以内の執行は守られるべきだとしながらも,「その都度,法務大臣が署名をしなくても死刑執行できる方法を考えるべきだ」との発言をし,その中で,ベルトコンベアとか乱数表という言葉が使われた,ということのようである。この午前中の記者会見の内容は,内閣としての記者会見であったためか,法務省のサイトには掲載されていない。

 そして,同日午後に,法務大臣に再任されて,記者諸氏から集中して質問を受けることになって,勉強会をすると言いだし,その後,死刑廃止を推進する議員連盟の保坂展人議員や亀井静香議員と面会するなどもあり,11月9日までに,3回の勉強会をこなしたという展開のようである。

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 ところで,報道では,ベルトコンベアとか乱数表という言葉が正面に取り上げられたり,法務大臣の負担軽減というニュアンスが強調されている。確かに,法務大臣が執行命令をせずに,機械的に死刑の執行がなされる仕組みが取れないかという発言は,それだけを取り上げれば,極めて無責任と非難されてもやむを得ないものであろう。

 刑事訴訟法の教科書をみると,法務大臣の執行命令を定めた刑事訴訟法475条の趣旨は,死刑が重大な刑罰であって,一旦執行すれば回復不可能であることから,法務大臣の慎重な判断にかからしめたものであるなどとしている。大抵の教科書の記述には,あまり政治的な意味合いが含まれていないし,積極的に政治的な意義を述べる文献にも出会わないのだが,昨年暮れにサダム・フセインの死刑が執行された時や,今年の7月にスリランカ人の10代のメイドが,サウジアラビアで死刑の宣告を受けた時の世界の反応を見ていると,死刑の執行には,場合によって,世界政治にかかわる問題が生じることがあることは否定できない。

 今の日本には政治犯が少ないので,そのような問題は余り生じないだろうが,政治犯がいる場合には,その処刑には,高度の政治的判断が必要となることは,見易い道理といえる。

 さらに,日本では,死刑の執行は,単なる殺人としてではなく,執行の瞬間まで,まさに刑の執行として行われているようであり,死刑囚に,自分の罪を自覚させ,刑の執行を受け入れる状態で執行することが,理念とされているように感じられる。現在では,死刑判決の確定から執行まで,7年くらいかかっているようだが,その期間は,かなりの部分が,死刑囚自身が死刑を受け入れるために使われているようにも感じられる。

 今回の執行でも,藤間死刑囚について,法務省は,「受刑能力に問題はなかった」とのコメントを出しているようであり(中日新聞の記事),これは,単に心神喪失の状態になかったというだけではなく(刑事訴訟法479条),もう少し深い意味合いが込められているように感じられる。

 このようなことを考えると,死刑の執行について,それを政治性のない検察官(たとえ検事総長でも)の執行指揮ではなく,議院内閣制の下で,多くの場合国民によって選挙された議員であり,そうでなくても内閣の一員として国民に対し直接に政治責任を負う法務大臣の政治的責任にかからしめることは,十分に意味のあることと考えられるし,また,そうあるべきだ,ともいえる。

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 さて,再び法務大臣の発言に戻ると,鳩山法務大臣は,8月27日の第2次安倍内閣で法務大臣に就任した際の記者会見で,記者から,死刑の執行について質問をされ,死刑の一般的抑止力を認め,「凶悪犯罪を犯せば,死刑になるよということをきちんとしておく必要があるだろうと」といした上,「私は著しく凶悪な犯罪を犯した人に,死刑を科するということを裁判所が判断すれば,これは重んじます。」と結んでいる。

 また,9月25日の福田内閣組閣後の記者会見では,死刑執行命令について,死刑は法務大臣の死生観,宗教観,哲学に左右されずに粛々と執行されていくのがいいとする面と,死刑が重大な刑罰であるだけに法務行政上の総合的な判断が求められているという面があり,その2つの難しい事柄の調和をとるというのが問題だと考えているという発言をしている。

 そして,記者からの「法務大臣ごとの信条でいろいろなぶれが生じることをまず改善しようということか」という質問に対して,それが優先的に頭に浮かんできた,と答え,さらに,「大臣ごとに判断が変わるのがおかしいというのか,法務大臣が苦しむからおかしいというのかどちらか」という質問には,「その両方だ」と答え,「責任逃れのように聞こえるが」という質問には,「責任逃れなどという考え方は毛頭ない」と答えている。

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 このような質疑応答の全体からすると,鳩山法務大臣の真意は,法務大臣によって執行にブレができることを抑えたいということにあり,機械的に順番にとか,乱数表で適当に,というのは,一種のフライング的発言で,必ずしもその本意ではなかったとみることができそうである。

 9月25日には,午前と午後で,だいぶ発言の趣旨に差があるようで,午後の会見では,「私も午前中よりは少しは勉強したものですから」と,やや弁解がましい言葉がはさまっている。推測するに,午前中の発言を受けて,法務省の幹部が,死刑の執行はそんなに簡単に決まっているわけではない,誰を執行するかは慎重に検討している,というようなことを説明して,理解を求めたという経過があったものと思われる。

 しかし,時既に遅しで,法務大臣の署名なしで執行とか,乱数表とかの発言が,断片的に取り上げられて報道されてしまったということなのだろう。このあたりは,大臣自身が,9月28日の記者会見で,不快感を述べているが,後で言い繕っているというよりは,むしろ結構正直なところなのではないかと思える。

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 ともあれ,鳩山法務大臣自身は,今回の死刑執行で法務大臣としての職責を果たしたといえるだろう。

 ただ,法務大臣は,その死生観,宗教観,哲学にかかわらず,死刑の執行という重責を免れてはならないのであり,制度をいじって,法務大臣の心理的負担を軽減するということは,特に,死刑の執行に政治的影響が考えられる場合には,その政治的責任をとる者がいなくなる,あるいは責任を回避するという意味で,適当とは思えない。

 まずは,法務大臣に就任する以上は,法務大臣としての職責を自覚し,粛々とその職責を果たすということが基本だということ,これは忘れてはならないことであり,その職責を果たすことのできる者が法務大臣の席に就くべきだということである。






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