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最高裁の痴漢無罪判決に思う 2

2009-05-04 16:47:38 | Weblog
 多数意見と反対意見を比較すると,多数意見は,被害者が,車内や成城学園前駅で積極的な回避行動を取らなかったことと,それに比較して下北沢駅での突然の糾弾行動のギャップを重視しているのに対し,反対意見は,満員電車の中の痴漢被害では,被害者のそのような行動もあり得ることとした上で,被告人の供述の変遷や,供述自体の不自然さを取り上げて,被告人の供述も必ずしも信用できるものではないとしている。

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 これらは,いずれも,供述の信用性判断の,いわばオーソドックスな手法を踏襲したものであり,補足意見の中にも触れられているとおり,いずれも,特異な判断手法を用いたものということはできない。

 しかし,多数意見と反対意見は鋭く対立しており,堀籠反対意見に至っては,多数意見の根拠をいずれも根拠薄弱とまで言い切っている。薄弱な根拠をいくつ積み上げても有力な根拠とならないというのは,以前の最高裁判決でも用いられていた覚えがあり,最高裁の判断枠組みとして,何となく定着してきたようにも感じられる。

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 それはともかく,双方の意見を読んで感じられるのは,鋭く対立しているようでありながら,双方の意見が,どこか噛み合っておらず,十分な議論になっていないことである。
 その原因は,もっぱら,私の読み方が不十分なことにあるのだろうが,それにしても,多数意見が,反対意見にいう,被告人の供述の変遷や,被害者に虚偽申告をする動機がないことをどう考えているかについては,何ら触れるところがない。かたや,反対意見にしても,被告人に,被害者が供述するような悪質な痴漢行為に出る動機もなければ,そのような性向もないことをどう考えているのかについて,何ら触れるところがない。

 堀籠反対意見にしても,補足意見の根拠を薄弱と決めつけているが,その「薄弱」の根拠は,せいぜい,被害者が述べるところも,裁判官が想像をたくましくした上で,「あり得ないことではない」という程度のことに止まっている。

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 これでは,最高裁判事が激論を戦わせたであろうことは推測できるものの,お互いの意見の根拠について,細かな詰めた議論をしたとまでは,感じ取ることができない。それぞれの拠って立つ立場の違いがどこからきているのか,その違いがあるなら,それを埋めるためには,どのような視点から事案を解析すればいいのか,という将来につながる,すなわち,今後の事件処理の基準となる物差しが,今ひとつ見えてこないように思われる。

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 私程度の者があれこれ言っても仕方がないのだが,この事件の判断を分けた要点は,被害者の申告する痴漢行為の悪質性にあったのではないかと感じられる。

 被害者の供述によれば,痴漢行為は,お互いの左半身がくっついた状態で,下着の上から陰部を触る,下着の上(パンティの胴回りのことをいうものだろう)から手を入れて陰部を触る,下着の横(またぐりのことをいうものだろう)から手を入れて陰部を触る,というもので,その間,スカート(女子高生のことだから,多分かなりのミニスカ)が,めくれあがっていたということになる。

 このような行為は,相当に大胆な痴漢行為であると思われ(多数意見も,「執ようかつ強度」と表現しているし,だからこそ,1,2審とも初犯であるにもかかわらず,相当長期の実刑になっていると考えられる。),いくら身動きならないほどの満員電車とはいえ,他人の目も多く,どのような人間が乗り合わせているかも分からない多数の公衆のいる場で,ここまでの行為に及ぶことは,相当の度胸がなければできない行為のように思われる。

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 多数意見は,これを,被害者の回避行動に結びつけているだけであるが,被害者の供述に対する根元的な疑問は,この辺りから発しているのではないかと想像される。そこから,回避行動がないことや,成城学園前駅で,双方ともが同じドアから再乗車していることの不自然さ(同じドアから再乗車するだけでもいくらか不自然であるのに,またもや相互に同じ体勢になっていることも,考えてみれば,何ともおかしい。)や,下北沢駅での突然の糾弾行動の不自然さが,クローズアップされてきたという,そのような思考過程を辿ったのではないだろうか。

 そう考えてみると,反対意見の見方は,全体を通しての人間の行動としての自然さ,不自然さの検討を抜きにして,一つ一つの場面のみを取り出して,あり得ることで必ずしも不自然ではないとしてみるなどしており(堀籠反対意見),その点で,考察の深まりが今ひとつのように感じられなくもない。

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 確かに,上告審は,法律審であり,経験則や論理法則といった,法律問題にかからない限り,審判できない建前であるから,反対意見の立場では,特に,原判決を見るに当たっても,一から事実認定をやり直すのではなく,そこで適用されている経験則や論理法則のみを取り出して検討すれば足りるというものかもしれない。

 しかし,そのような判断手法は,本件で見る限り,何とも表面的で,問題の本質への切り込みにおいて,足りないものを感じざるを得ない。
 もちろん,最高裁はそれでいいのだということもできるだろう。法的安定性の問題や,下級審の判断の尊重といった,ある意味で政策的なものも含めた考慮も必要となることではある。

 それでも,なお,私としては,今回の件に関しては,最高裁の多数意見の方が正しいのではないかと思える。

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 そして,判断の当否はともかくとして,今回の最高裁判決のこれからの刑事裁判に与える影響としては,多数意見とその補足意見が,供述の信用性判断にしばしば用いられる,詳細かつ具体的,迫真的,不自然・不合理な点がないという,いわばマジックワードに厳しい目を向けたことにあると思われる。

 多数意見のいわんとすることは,供述の信用性判断に当たって,詳細かつ具体的,迫真的,不自然・不合理な点がないというマジックワードに頼って,供述を表面的におさらいするのではなく,供述の全体をよく見て,もっと根元的な不自然さがないかどうかを,慎重に判断すべきである,という点にあると思われる。






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