昨日は福井芸術・文化フォーラム10周年のつどいが福井市内のホテルであり参加した。創立以来、副理事長として牽引されてこられた岸田美枝子さんが退任、事務局としてささえてこられた宇佐美信子さんが退職された。そういうこともあってこの10年を振り返り、お二人の労もねぎらう心あたたまる会だった。岸田さん、宇佐美さん、本当におつかれさまでした。
新副理事長の重職は、人形劇団「とんと」でもおなじみの前田耕一氏が担う。会は前田氏の軽妙な司会運行ですすめられた。10年をふりかえる映像には私をこの会に誘った谷口由美子さん(故人)のはじける笑顔もあって胸がつまった。
福井の地に新しい文化のカタチを創造してきた芸術・文化フォーラム。今後、指定管理者問題など難関にいどむことになる。市民運動を微力ながら応援していきたい。
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さて、6月28日は福井震災61周年だった。よく、「戦災、震災をのりこえてきた」といわれたが、福井平野に住む人たちにとっては本当にそうだったと思う。
わたしの実家は、旧坂井郡坂井町だが、地震で家は大きく傾いた。2階の大屋根が地面に落ちた、その家の前で一家そろって「記念撮影」した写真をみたことがあるが、祖父は腕を組み憮然とした表情で写っていた。戦争で息子をなくし、直後の震災で家財を失い、だ。
父から当日の話を聞いたことがある。野良にでていた父はおもわず倒れこんだ。近くで農作業していた人は川にはまって泥だらけ。散歩中の我が家のアヒルも「ガーガー」大騒ぎ、豚舎は倒壊し豚は圧死・・・・誰も死ななかったから、「あはは」と笑って子どもの頃は聞いていたが・・・・。
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「日本地震学の父」の大森房吉は福井市の出身。以下は電子百科からの引用・・・・・
大森 房吉(おおもり ふさきち、1868年10月30日(明治元年9月15日) - 1923年11月18日)は日本の地震学者。
1868年、越前国足羽郡福井城下(現福井県福井市手寄)に下級武士大森藤輔の五男として生まれる。小学生の時に上京し、1890年に東京帝国大学理科大学(現東京大学)物理学科を卒業、その後大学院で気象学と地震学を専攻し、イギリスから招かれた地震学者ジョン・ミルンの指導のもとで1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。そして、1894年に本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す(余震の)大森公式も発表している。
1894年から3年間ヨーロッパへ留学し、帰国後(1896年)、帝国大学理科大学地震学教授となる。濃尾地震を契機に文部省(現文部科学省)内に設置された震災予防調査会の幹事を長らく務め、日本の地震学の指導的な立場にあり、「日本地震学の父」とも呼ばれている。1898年に世界初の連続記録可能な地震計、大森式地震計を開発した。1899年に初期微動継続時間から震源までの距離を決定できることを示す(震源距離の)大森公式を発表した。・・・・・
ノーベル賞の南部先生の業績とともに、評価されるべきだろう。
新副理事長の重職は、人形劇団「とんと」でもおなじみの前田耕一氏が担う。会は前田氏の軽妙な司会運行ですすめられた。10年をふりかえる映像には私をこの会に誘った谷口由美子さん(故人)のはじける笑顔もあって胸がつまった。
福井の地に新しい文化のカタチを創造してきた芸術・文化フォーラム。今後、指定管理者問題など難関にいどむことになる。市民運動を微力ながら応援していきたい。
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さて、6月28日は福井震災61周年だった。よく、「戦災、震災をのりこえてきた」といわれたが、福井平野に住む人たちにとっては本当にそうだったと思う。
わたしの実家は、旧坂井郡坂井町だが、地震で家は大きく傾いた。2階の大屋根が地面に落ちた、その家の前で一家そろって「記念撮影」した写真をみたことがあるが、祖父は腕を組み憮然とした表情で写っていた。戦争で息子をなくし、直後の震災で家財を失い、だ。
父から当日の話を聞いたことがある。野良にでていた父はおもわず倒れこんだ。近くで農作業していた人は川にはまって泥だらけ。散歩中の我が家のアヒルも「ガーガー」大騒ぎ、豚舎は倒壊し豚は圧死・・・・誰も死ななかったから、「あはは」と笑って子どもの頃は聞いていたが・・・・。
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「日本地震学の父」の大森房吉は福井市の出身。以下は電子百科からの引用・・・・・
大森 房吉(おおもり ふさきち、1868年10月30日(明治元年9月15日) - 1923年11月18日)は日本の地震学者。
1868年、越前国足羽郡福井城下(現福井県福井市手寄)に下級武士大森藤輔の五男として生まれる。小学生の時に上京し、1890年に東京帝国大学理科大学(現東京大学)物理学科を卒業、その後大学院で気象学と地震学を専攻し、イギリスから招かれた地震学者ジョン・ミルンの指導のもとで1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。そして、1894年に本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す(余震の)大森公式も発表している。
1894年から3年間ヨーロッパへ留学し、帰国後(1896年)、帝国大学理科大学地震学教授となる。濃尾地震を契機に文部省(現文部科学省)内に設置された震災予防調査会の幹事を長らく務め、日本の地震学の指導的な立場にあり、「日本地震学の父」とも呼ばれている。1898年に世界初の連続記録可能な地震計、大森式地震計を開発した。1899年に初期微動継続時間から震源までの距離を決定できることを示す(震源距離の)大森公式を発表した。・・・・・
ノーベル賞の南部先生の業績とともに、評価されるべきだろう。