Dying Message

僕が最期に伝えたかったこと……

秋葉原通り魔殺人事件 その2

2008-06-18 14:58:39 | Weblog
 土曜日には大きな地震もあったし、その後には宮崎勤の死刑執行もあったけれど、オレは未だに秋葉原の事件が頭が離れない。どうしてだろう?と考えてみると、恐らく加藤容疑者とオレには共通点というか、似たところがあるからだと思う。
 サブタイトルは「秋葉原の事件を取り上げるとアクセスが増えるのは偶然か否か」。

 今までも散々書いてきたけれど、オレは実に暗い高校生活を送った。暗いと言っても、オレはそんじょそこらの連中と違って極めていた。2年生になってからは誰とも口を聞かなかったんじゃないか。
 クラスの大人しい奴がオレを仲間だと思って話し掛けてきたことはあったけど、こちとらは一切相手にしない。要するに、完全な自閉症だったわけ。

 そうすると辛いのが休み時間なんだね。特にすることもないから、興味もない次の授業の教科書を眺めたり、机に突っ伏したりするわけだけど、神経だけは常に研ぎ澄ましているの。教室の後ろでほうきを使ってホッケーをしているような連中が悪口を言ってないかって、オレ、耳は常にダンボよ。

 だけど、やっぱり疲れるから、オレも対策を考えた。それは学校に耳栓を持って行くというものだ。あとは眼鏡やコンタクトもしなかった。オレは裸眼だと視力が0.1もないからね。聴覚と視覚を遮ることで、要らん神経を使わないようにしようと思ったわけさ。

 考えついた時は、我ながらナイスなアイディアだと思ったけど、いざやってみると……ダメなんだな、これが。目や耳を塞いだ分、悪い意味での想像力ばっかりが膨らんじゃって、終いにゃ声なき声まで聞こえてくる始末。

 だけど、一方で、やっぱし耳栓を外すこともできない。だって、それを外した瞬間、自分への嘲笑の声が聞こえるに違いないと信じ込んでいるわけだから。
 当時の自分は、いや今もだけど、性格的にネガティブなところがあるから、感じ取れない部分を全て負の想像で埋め合わせてしまって、その辛さたるや、正直、思い出したくもないよ。

 そんなこんなでジレンマに揺れていたわけだけど、ある日、何がきっかけだったかは分からないが、とにかく耳栓を外してみようと思った。いつまでも逃げていたらいかんと。ダメだったらまた入れりゃいいんだから、とりあえずでも外の声を聞いてみようと思った。

 それで耳栓を外してみるんだけど、これが……びっくりするくらい平気なんだよね。眼鏡をかけて辺りを見回してみるけど、誰もオレなんかに構っちゃいない。よく考えてみたら、オレは暗すぎてからかう対象にもなりえなかったんだという(笑)。
 良いんだか悪いんだかよく分からないけど、とにかく自分が抱いてのは被害妄想だったということ。それだけはハッキリとした。

 ここでやっと加藤容疑者の話に戻るけど、彼が犯行に突き進んだのは、要は耳栓を外そうとしなかったということなんじゃないか。自分はブサイクだから、彼女もいないから、派遣社員だから……。そんな風に被害妄想が被害妄想を呼んで、気が付けば片手にダガーナイフ、もう片手にはあの世行きの切符を握りしめていた。どこかで現実を直視する、ほんのちょっとの決意をすれば、事件は回避できたはずなのに。

 彼が派遣社員だったこともあり、報道番組のコメンテーターによっては「社会の犠牲者」なんて言う人もいる。けれど、オレには派遣だのというのは、ごくごく小さな要因にしか思えない。加藤智大がたとえ正社員であったとしても、ツナギがなければ逆上したに決まっているわけだから。
 要するに、一番の問題は妄想の世界に別れを告げられないことであって、それ以外はオマケに過ぎないということだ。そもそも本当に生きるのが辛いなら、殺人じゃなくて自殺するのが筋ってもんなんだしね。

 日雇いの派遣を禁止にするという動きがあるように、派遣制度にメスを入れてゆくことが同じような事件を防ぐのに必要なのは間違いない。けれど、それを口実に犯人を庇うのは、加藤智大の異常性から目を背けることにしかならないんじゃないか。
 圧倒的に異常な事件を受け入れるため、世間が安易な理由づけをして納得しようとしているとしたら、それは耳栓をして高校生活を送ったバカ野郎と同じレベルということだと思う。犯人の特異性に耳をそば立てた上でどう扱うかを考えるのが、亡くなった人たちへのせめてものレクイエムだろう。


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