Dying Message

僕が最期に伝えたかったこと……

合掌

2011-01-18 17:50:51 | Weblog
 中学時代に同じ部活だったF君が昨秋亡くなった。

 オレは結構仲が良くて、クラスも一緒でさ。修学旅行も同じ班で回ったりしたのだけど、その時も車椅子だったんだよね。当然、京都の街を動くのには不自由だから、特別に学校がタクシーを借りきってくれて、すごく快適な旅になった。それが彼に対する一番の感謝かな(笑)。

 病気を患ってからは学校でも帽子を被ってた。まぁ抗癌剤の副作用で毛が抜けちゃったのだろうけど、オレも残酷だった。しつこく「下の毛はどうなった?」と。しょうがないじゃん、純粋に疑問だったんだから! でもごめんなさい……。それが彼に対する一番の懺悔かな(笑)。

 あとは、部活の顧問らと一緒に自宅へお見舞いに行って暴れまくったり、その家をオンボロとバカにしたり。何だか申し訳ない思い出ばかりだ。卒業から10年経ち、会う機会も全くなかったけれど、真面目で心根の優しい奴だったことはよく覚えてる。頭も良かったし、生きていればまだまだ色々あったろうに…と思うと胸痛む。

 その一方で、オレときたらね。頭は悪いし、情もないし、これからもろくな人生を歩む予定はないのに、体だけは丈夫に生まれてしまった。父方の祖父が99歳まで元気だったこと思えば、長寿の遺伝子は受け継いでいるのだろう。あの世の選考基準はいつもあまりに不平等すぎて「天国の人事部よ、しっかりしろ!」と言いたくなる。

 決して短くない時間を共有した人が死んじゃうなんて全然実感が湧かないよ。オレの目線で言えば、どのみち再会の予定がないのなら、この世にいようがいまいが関係ないのかも知れない。しかし、それは違うと誰しも思う。思うんだけど、じゃあ何が違うの? 故人を偲ぶってどういうこと?

 実は肉体など借り物に過ぎなくて、本当に大事なのは、いかに多くの人の心の中で生きていられるかじゃないか。人間にとって最も辛いのは孤独で、それは死の前後に関わらない。だとしたら、F君は確かにまだ確かに生きているし、この先も生き続けなくちゃいけない。残された者たちの使命でもあるはずだ。

 でも、一方で、死が否応なしの終わりを意味するのは事実。あれこれ理屈を付けるのがこの世の人間のエゴなのもまた事実。綺麗事では語れないからこそ様々な葛藤が生まれるし、逆接的に生あることの価値が見出だせる。美化しすぎれば生きる意味を見失わせるばかりだろう。

 発癌性物質を体に入れながら、取り留めもなく故人に思いを馳せる自分がいる。


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