平塚で七夕祭が始まった。
自慢ではないが、オレは祭りには全く興味がない。裁縫が死ぬほど得意だった自分も、まつり縫いだけは苦手だった。ついでに言えば、針から糸が抜けないようにコブを結ぶのも、どうしても上手に出来なかった。
街を1枚の絵のように眺めれば、背景は幸せの色に染まっている。
まだ明るいのに手を繋いで歩くアベックに、どう見てもナンパされるのを待ってる浴衣のオネーチャン。祭りが楽しくて楽しくて、その楽しさに少しの迷いもないことがひしひしと伝わってくる。
たこ焼きの屋台に行列ができている。
ひとパック8個入りで500円。なかなか大袈裟な値段だ。ガソリンの値段にはあれほど敏感な連中が、たこ焼きの価格にはまるで無頓着なのが笑える。焼きそばならまだしも、たこ焼きなんて晩飯にもならないだろうに。
携帯電話だってみんなが持っている。
国から金を貰わなきゃ子供を産めないとほざくバカ女も、ワーキングプアなんて呼ばれる若者も、DoCoMoへのお布施を拒否する奴なんて誰ひとりいない。
今や、爺さん婆さんですら、そこかしこで電話を使う世の中だ。「じゃあ今からそっちに向かうよ」って、あの世にでも連絡を入れているのだろうか。自分の健康のためにもお金を出せないと言う人が、いっぱしの通信機器を持っているという、そのセンスのなさがオレには信じられない。
特に高校生の頃、オレは自分の一挙手一投足に理屈を付けては苦しんでいた。
例えば友達の宿題をやってあげたとき。親切を装っているけれど、実際はそいつのことを想っているのではなく、ただ感謝されたいだけなんじゃないの?と。それどころか頭のどこかで見返りを期待してさえいる気がして、そんな自分の偽善めいたあさましさが許せなかった。今も、当時ほどではないけれど、自分の行動の矛盾に嫌気がさすことがしばしばある。
そんなオレから見れば、世間の奴らなんて大バカ野郎ばっかりだ。どいつもこいつも、ただ国に文句を言えばいいとしか思っていないような奴ばかり。そこには自己批判の精神はかけらもない。
単刀直入に言って、サイテーだと思う。だから、オレは、連中と自分とでは端から立ち位置が異なっているんだという、明確な意志だけは常に持っていたい。
でも、一方で、時々怖くなることがある。要するに、そんなことにいちいち突っ掛かる自分は野暮なのではないかという不安だ。
世間の人たちは、己の発言の矛盾も何も全て理解していて、為政者たちへのクレームも段取りの一環としてこなしているだけなんじゃないか。オレが喜び勇んで誤謬を指摘したところで「分かってるよ、そんなこと」という答えが帰ってくるんじゃないか。もしそうであるなら実は自分だけが暗がりに取り残された存在で、だとしたら自分はとんだ恥知らずで、するとそんな自分に果たして生きる意味があるのかという、至極真っ当な感想が頭の中を支配する。
そんな堂々巡りの思考に飽きて、ふと顔をあげると、太い竹が視界に飛び込んできた。葉っぱをよく見ると、たくさんの落書きが吊り下げられていた。
自慢ではないが、オレは祭りには全く興味がない。裁縫が死ぬほど得意だった自分も、まつり縫いだけは苦手だった。ついでに言えば、針から糸が抜けないようにコブを結ぶのも、どうしても上手に出来なかった。
街を1枚の絵のように眺めれば、背景は幸せの色に染まっている。
まだ明るいのに手を繋いで歩くアベックに、どう見てもナンパされるのを待ってる浴衣のオネーチャン。祭りが楽しくて楽しくて、その楽しさに少しの迷いもないことがひしひしと伝わってくる。
たこ焼きの屋台に行列ができている。
ひとパック8個入りで500円。なかなか大袈裟な値段だ。ガソリンの値段にはあれほど敏感な連中が、たこ焼きの価格にはまるで無頓着なのが笑える。焼きそばならまだしも、たこ焼きなんて晩飯にもならないだろうに。
携帯電話だってみんなが持っている。
国から金を貰わなきゃ子供を産めないとほざくバカ女も、ワーキングプアなんて呼ばれる若者も、DoCoMoへのお布施を拒否する奴なんて誰ひとりいない。
今や、爺さん婆さんですら、そこかしこで電話を使う世の中だ。「じゃあ今からそっちに向かうよ」って、あの世にでも連絡を入れているのだろうか。自分の健康のためにもお金を出せないと言う人が、いっぱしの通信機器を持っているという、そのセンスのなさがオレには信じられない。
特に高校生の頃、オレは自分の一挙手一投足に理屈を付けては苦しんでいた。
例えば友達の宿題をやってあげたとき。親切を装っているけれど、実際はそいつのことを想っているのではなく、ただ感謝されたいだけなんじゃないの?と。それどころか頭のどこかで見返りを期待してさえいる気がして、そんな自分の偽善めいたあさましさが許せなかった。今も、当時ほどではないけれど、自分の行動の矛盾に嫌気がさすことがしばしばある。
そんなオレから見れば、世間の奴らなんて大バカ野郎ばっかりだ。どいつもこいつも、ただ国に文句を言えばいいとしか思っていないような奴ばかり。そこには自己批判の精神はかけらもない。
単刀直入に言って、サイテーだと思う。だから、オレは、連中と自分とでは端から立ち位置が異なっているんだという、明確な意志だけは常に持っていたい。
でも、一方で、時々怖くなることがある。要するに、そんなことにいちいち突っ掛かる自分は野暮なのではないかという不安だ。
世間の人たちは、己の発言の矛盾も何も全て理解していて、為政者たちへのクレームも段取りの一環としてこなしているだけなんじゃないか。オレが喜び勇んで誤謬を指摘したところで「分かってるよ、そんなこと」という答えが帰ってくるんじゃないか。もしそうであるなら実は自分だけが暗がりに取り残された存在で、だとしたら自分はとんだ恥知らずで、するとそんな自分に果たして生きる意味があるのかという、至極真っ当な感想が頭の中を支配する。
そんな堂々巡りの思考に飽きて、ふと顔をあげると、太い竹が視界に飛び込んできた。葉っぱをよく見ると、たくさんの落書きが吊り下げられていた。