曇り。23-15℃
私が鬱々としているうちにも、
時は瞬く間に過ぎ去り、
放置していた我が庭にも、春が平等に訪れた…。
庭をいじりたいのだが、
冬の間、本と楽譜を読むのに追われて、
花が咲きだし、こうなると可愛そうで、切るわけ、掘るわけにもいかず…。
考えてみれば、私は名作「薔薇の名前」すら、まだ観ていないのだった。
私は今、老化や、理不尽でままならぬ事の哀しみを、
難しい音楽を再開することによって、
進化へと(誤魔化して)置き換えている、
おそらくそれは、
心理学でいうところの、防衛機制の代償と昇華に過ぎない。
だが、それでいい、
それで、私は雑念が一切消え、未来への夢が出来て幸せなのだから。
朝一番にリカルボン。
今の私は、人生の最後になるまで、綺麗なポーズで楽器を弾きたいとひたすら願う、
例として、同じ音しか出ないのなら、
外見はだらしないより、ピシッと決まっていたほうが、気持ち良いに決まっている。
既に骨は、病気でボロボロではあるが、ネグレストはしない。
自助努力もするが、今までより、より期待を込めて。
(いくつかの膠原病については、近いうちに新たな治療を受け入れるかもしれない、昨夜は、ずっと考えていた…。)
猫達と練習。
湿度が良いのだろうか、気温だろうか、昨日より音の調子が良い。
そして、音楽でいっぱいいっぱいになり、放置で心を痛めている庭に出る。
ミカンの花の匂いが爽やかだ。
バラの記述について大好きな文章を。
ちょうどその時、
私たち(私=パール・バック)だけの世界の回転する中心になっている母がそこへあらわれた。
歩くたびに裾が芝の上に引きずるぐらい長い、襞の多い、白い服を着て、
赤いリボンを編んだ古い大きな麦藁帽を褐色の縮れ毛の上にかぶっている。
花鋏を手にして露に濡れた薔薇の花をかかえ切れぬほど持っていた。
私の眼には皿ほどにも大きく見えた一輪の白薔薇を持った手をずっと伸ばして、
そうしてしげしげとそれに見入っている。
露の玉が点々と花の上に輝いている。
やがて、母はその白薔薇をやさしく鼻にあてた。
うっとりとその匂いに吸い込まれて行くようにしている母の様子を眺めているうちに
私もその通りにやりたくなって、大きな声を出して騒ぐと、
母は私の方へ手を伸ばして薔薇を差し出してくれた。
私はめちゃくちゃに顔を花に押し付けた。
私が考えていたよりもずっと花は大きく、
そうして露に濡れていたので顔をあげた時にはずぶぬれで、
まるで、いきなり冷たい池の中へ突き落されてあがって来たような気持ちで、
くしゃみが出るやら、息が弾むやらであった。
ガーデニングする母と小さな娘、美しい光景です。
私は、もし庭が綺麗であっても、自分の庭は道路から見せたくはない。
何故なら、私の心には、バーネットの「秘密の花園」のような鍵がかかっている。
だから、高い塀を張り巡らしている。自分の心も。
これは、もう永遠に変わることがないと思う。
今日は少しだけ、扉を開けてみた。
地味な私の世界です。
再開するとしたら、これからは、果樹中心になるでしょう。
日は暮れて、、、
夕日を振り向けば、後ろには月。
夜には、図書館で借りたクラッシックを聴きながら、簡単に仮縫いをする幸せ。
私の手は、もう立ち止まりたくない。
立ち止まらないで欲しい。
猫の友人も論文を書いたと、素晴らしい記事をあげている。
私も、立ち止まるな!
こういうつまらない記事を、
何故皆様が読んでくださっているのかは、私には永遠の謎である。
皆さま、素晴らしい黄金週間をお過ごしください。
それにしても、
カラヤンの指揮とベルリンフィルが、今頃素晴らしいと気づいた、遅咲きの自分。
やはり何事も経験なのです、
批評は簡単、自らの実践があってこそ、目からうろこでわかることもあると理解。
パッヘルベル - 3声のカノンとジーグ ニ長調(編曲:M・ザイフェルト)より カノン カラヤン ベルリンフィル
マーラー - 交響曲 第5番 嬰ハ短調 第4楽章 アダージェット カラヤン ベルリンフィル
アルビノーニ - 弦楽とオルガンのためのアダージョ ト短調 カラヤン ベルリンフィル
私が鬱々としているうちにも、
時は瞬く間に過ぎ去り、
放置していた我が庭にも、春が平等に訪れた…。
庭をいじりたいのだが、
冬の間、本と楽譜を読むのに追われて、
花が咲きだし、こうなると可愛そうで、切るわけ、掘るわけにもいかず…。
考えてみれば、私は名作「薔薇の名前」すら、まだ観ていないのだった。
私は今、老化や、理不尽でままならぬ事の哀しみを、
難しい音楽を再開することによって、
進化へと(誤魔化して)置き換えている、
おそらくそれは、
心理学でいうところの、防衛機制の代償と昇華に過ぎない。
だが、それでいい、
それで、私は雑念が一切消え、未来への夢が出来て幸せなのだから。
朝一番にリカルボン。
今の私は、人生の最後になるまで、綺麗なポーズで楽器を弾きたいとひたすら願う、
例として、同じ音しか出ないのなら、
外見はだらしないより、ピシッと決まっていたほうが、気持ち良いに決まっている。
既に骨は、病気でボロボロではあるが、ネグレストはしない。
自助努力もするが、今までより、より期待を込めて。
(いくつかの膠原病については、近いうちに新たな治療を受け入れるかもしれない、昨夜は、ずっと考えていた…。)
猫達と練習。
湿度が良いのだろうか、気温だろうか、昨日より音の調子が良い。
そして、音楽でいっぱいいっぱいになり、放置で心を痛めている庭に出る。
ミカンの花の匂いが爽やかだ。
バラの記述について大好きな文章を。
ちょうどその時、
私たち(私=パール・バック)だけの世界の回転する中心になっている母がそこへあらわれた。
歩くたびに裾が芝の上に引きずるぐらい長い、襞の多い、白い服を着て、
赤いリボンを編んだ古い大きな麦藁帽を褐色の縮れ毛の上にかぶっている。
花鋏を手にして露に濡れた薔薇の花をかかえ切れぬほど持っていた。
私の眼には皿ほどにも大きく見えた一輪の白薔薇を持った手をずっと伸ばして、
そうしてしげしげとそれに見入っている。
露の玉が点々と花の上に輝いている。
やがて、母はその白薔薇をやさしく鼻にあてた。
うっとりとその匂いに吸い込まれて行くようにしている母の様子を眺めているうちに
私もその通りにやりたくなって、大きな声を出して騒ぐと、
母は私の方へ手を伸ばして薔薇を差し出してくれた。
私はめちゃくちゃに顔を花に押し付けた。
私が考えていたよりもずっと花は大きく、
そうして露に濡れていたので顔をあげた時にはずぶぬれで、
まるで、いきなり冷たい池の中へ突き落されてあがって来たような気持ちで、
くしゃみが出るやら、息が弾むやらであった。
ガーデニングする母と小さな娘、美しい光景です。
私は、もし庭が綺麗であっても、自分の庭は道路から見せたくはない。
何故なら、私の心には、バーネットの「秘密の花園」のような鍵がかかっている。
だから、高い塀を張り巡らしている。自分の心も。
これは、もう永遠に変わることがないと思う。
今日は少しだけ、扉を開けてみた。
地味な私の世界です。
再開するとしたら、これからは、果樹中心になるでしょう。
日は暮れて、、、
夕日を振り向けば、後ろには月。
夜には、図書館で借りたクラッシックを聴きながら、簡単に仮縫いをする幸せ。
私の手は、もう立ち止まりたくない。
立ち止まらないで欲しい。
猫の友人も論文を書いたと、素晴らしい記事をあげている。
私も、立ち止まるな!
こういうつまらない記事を、
何故皆様が読んでくださっているのかは、私には永遠の謎である。
皆さま、素晴らしい黄金週間をお過ごしください。
それにしても、
カラヤンの指揮とベルリンフィルが、今頃素晴らしいと気づいた、遅咲きの自分。
やはり何事も経験なのです、
批評は簡単、自らの実践があってこそ、目からうろこでわかることもあると理解。
パッヘルベル - 3声のカノンとジーグ ニ長調(編曲:M・ザイフェルト)より カノン カラヤン ベルリンフィル
マーラー - 交響曲 第5番 嬰ハ短調 第4楽章 アダージェット カラヤン ベルリンフィル
アルビノーニ - 弦楽とオルガンのためのアダージョ ト短調 カラヤン ベルリンフィル