雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

廻り廻って ・ 小さな小さな物語 ( 496 )

2013-08-17 10:21:10 | 小さな小さな物語 第九部
キプロスの金融危機が、ユーロ圏経済に影響を及ぼし、それがアメリカ株式市場の反落につながり、それを受けたわが国の株式市場も下落する・・・。
先週末の一日二日は、世界経済は繋がっているということを教えてくれるお手本のようなものでした。
これは決してキプロスという国家や国民について非難しているつもりはありませんので、くれぐれも誤解がないようにお願いしておきたいのですが、人口や経済規模からすれば間違いなく小国の部類だと思うのですが、世界経済に対してこれだけの影響をもっていることに驚くとともに、確かに私たちの生活のすべての面が、良いにつけ悪いにつけ、廻り廻ってくる波を受けていることになっているようです。

テレビなどの街頭インタビューなどで、最近の株式市場の活況について、「恩恵を受けているのは一部の金持ちだけだ」といったものを見る機会が何回かありました。番組の構成自体がそのような意見を期待している様子が見え見えのものもいくつかありました。
個人的な感情からいえば、「そうだ、そうだ」と叫びたい気持ちも確かにあるのですが、それはあまりにも短絡的な考えのようにも思うのです。
株式取引に何の関係もない人であっても、例えばこの三カ月程の値上がりだけで、年金資源は増加していて、年金制度に何の工夫がなされないとしても、破綻するのが何カ月かは先に延びたはずですよ。つまり、現に年金を受給しているいないかに関わらず、加入している人すべては、その恩恵を受けているはずです。もしかすると、下手な株式投資家よりも恩恵は大きいかもしれません。
もっとも、この十数年にわたる、年金資金を管理している組織の立派な運用の在り方が、現在の年金システムの危機の原因の何割かになっているともいえることになります。破綻危機の原因は、少子高齢化だけではないはずなのです。

お花見の季節、今年は各地とも相当早く、行事の調整などに苦心されている人もいるかに聞いています。
まあ、こちらの方は、たとえ葉桜になったところで、年金資金をじゃじゃ漏れにされたほどのことはありますまい。
ところで、お花見の桜といえば、やはりソメイヨシノが主流のようです。八重桜やシダレザクラも捨てがたいですし、日本人は何といっても山桜だという人もいるそうです。各地には、それぞれに特徴ある桜を愛でる人々も少なくありませんが、全体としてはやはりソメイヨシノの存在感は圧倒的です。
しかし、このソメイヨシノは江戸時代に江戸の染井村で交配により生み出された新しい品種なのです。ソメイヨシノは種で増やすことは出来ませんので、一本一本接木などで増やしていくそうなのです。つまり、わが国だけでなく、ワシントンにあるソメイヨシノも、全て一本の木から生み出されたクローン桜なのです。
廻り廻って全国に広がり、今や気象庁はじめ桜ウオッチャーに追い回される存在になっているのです。

私たちの日常は、あらゆる事件や事象が廻り廻って影響を受けているのです。
落語の中にはご隠居さんなる人物がよく登場します。たいていは浮世離れしているように描かれていることが多いものです。かつて、唐土には仙人なる浮世を超越した生活を送っていた人々がいたそうです。
わが国でも、平安や鎌倉時代には、末法思想の影響もあってか、仙人のような生き方にあこがれた人々も少なくなかったそうです。かの西行もそうだったのかもしれません。
しかし、実際はどうだったのでしょうか。廻り廻って押し寄せてくる世間のしがらみを捨て切れることなど出来たのでしょうか。西行に関する断片的な知識からいえば、とてもとてもそんな様子は感じられず、廻り廻って押し寄せてくる世間の波にどっぷりとつかった生涯だったように見えてしまうのです。
現代に生きる私たちには、そのようなことを望むこととて困難なことです。
せめて、植木職人の手で生み出された一本の桜から、廻り廻って各地で花を咲かせているソメイヨシノの健気さに想いを寄せながら、お花見を楽しむとしますか。

( 2013.03.26 )
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一票は一票 ・ 小さな小さな物語 ( 497 )

2013-08-17 10:19:25 | 小さな小さな物語 第九部
いわゆる「一票の格差」を問題視した裁判が、各地の高裁で次々と憲法違反と判定されています。
報道などを見る限り、今回初めて下された、憲法違反でかつ選挙無効という判決に対するものに大きな関心が寄せられているようです。確かに、政治の混乱や社会に対する影響などを考えれば、選挙無効ということは大変なことだと思うのですが、本当は、憲法違反という判定こそが立法府に対するレッドカードのはずなのです。

いくら憲法違反という判決が出たところで、選挙無効とされない限りは、のらりくらりと国会議員を続けていけばいいという考え方こそがとんでもない話であって、実際に、恥ずかしげもなくその旨のことをテレビのインタビュウに応えている鉄面皮と表現したい国会議員もいます。
選挙無効ということは大変なことのようですが、決してそうではなく、憲法違反とされた議員が国会議員として存続していることの方がよほど大変なのです。
選挙無効が付こうが付くまいが、憲法違反と判定されれば国会議員は全員失職すべきなのです。国会議員が全員失職すれば混乱すると心配される人もいるようですが、大したことありませんよ。憲法違反の制度により選ばれてしまった人物によって政治を担当されることの方が遥かに社会に悪影響を及ぼすはずです。

それにしても、どういうつもりで前回選挙に対する裁判所の判断を国会は無視し続けてきたのでしょうか。
国会議員の全てとは言わないまでも、過半の議員は、よほど図々しいか、無能なのか、それ以外の理由もあるのでしょうか。
昨年末以来、経済対策などきわめて順調にスタートした新政権です。この問題に対しても思い切った解決策を示して欲しいものです。
「0増5減」なんて小手先の対策は話になりませんよ。現在与党の中でまとめられつつあるという、わけの分からない制度などは憲法違反そのものですよ。議員定数削減といえば正義のように叫ぶ意見に振り回されるのも愚の骨頂です。
おそらく、これまで出来なかったことを現在の国会が簡単に改善策を見つけ出せるとは思えませんので、この際勇気をもって、不祥事の団体の定番である「第三者委員会」にでも丸投げするのもいいのではないですか。

それにしても、選挙制度というものは難しいものです。
そもそも格差とは何なのか、そして、何故発生しているのかも国民全体がよく考えてみる必要もありそうです。
詳しく調べたわけではありませんが、人口比でみた場合、一票の格差は他の先進国に比べてわが国が突出しているというものでもないのです。例えば、アメリカの上院議員は各州から二名ずつ選出されるため、人口比でいえば六十倍ほどの差があるそうです。
そのような例を考えてみますと、人口比だけで国会議員を選ぶのが本当に正しいのかということになります。例えば、国土の面積比では駄目なのかということや、領海分も考慮する必要があるのではないかということも笑って済ませることではないような気がするのです。
要は、何を根拠として議員を選出するのかということをルール化させることが大切なのです。現役の国会議員を除いたメンバーで討議されることが理想ですが。
同時に、二十万人で一人の国会議員を選出するのと、四十万人で一人の国会議員を選出する地域がある場合、本当に一人の選挙権としての価値は半分になるのでしょうか。これは算数の問題ではなく国家運営のためのテストなのです。それほど簡単なものではないような気がするのです。
ルールさえしっかりしておれば、算数的に考えた一票の格差などという単純なことで大騒ぎする必要などないような気がするのです。
どちらの地域に属していても、一票は間違いなく一票としての働きをするのですから。

( 2013.03.29 )
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国の骨格 ・ 小さな小さな物語 ( 498 )

2013-08-17 10:16:53 | 小さな小さな物語 第九部
「国家とは何ぞや」などと大見えを切るわけではありませんが、国家とは何をもって認定されるのでしょうか。
例えば、国連に加盟していることをもって国家という考え方があるとすれば、これはかなり歪んだ考え方になってしまうでしょう。何故なら、国連に加盟するためには、国連の安全保障理事会と総会の両方の承認を得ないと加盟できませんので、拒否権を持つ常任理事国という制度が存在する限り、国連加盟は民主的な手段で検討されているとはいえないからです。
つまり、国連加盟国は国家であるとか否かの判断基準などではなく、規模の大きいクラブの会員という方が正しいような気がします。
現在、国連に加盟している国家は193ケ国(2012年10月現在)だそうですが、ごく単純に考えて、当然国家として位置付けられるべきだと思われる国は、これ以外にも数多くあるわけです。

国連に加盟できる条件には、「主権国家であること」という条件もあります。さて、何をもって主権国家と判断するのか、それを誰が公平に判断できるのかということになりますと、これもまた難しい限りです。
国家について政治的な背景を絡めてしまうと難しくなってしまいますので、もっと簡単に考えを進めたいと思います。
まず、国家であるためには「人」が存在していることが絶対条件となります。人口が「0」という考え方はあり得ないでしょう。そして、もう一つは「国土」です。
かつて、亡命政府という形態も歴史上何度か登場していますが、あくまでも一時的に政権中枢部が緊急避難しているだけで「人」も「領土」も傷つけられながらも存在していたはずです。
現在国家らしい形態をもっている「人」の集団は、おそらく数百に達するのでしょうが、その中に「国土」を有していない集団もあるのでしょうか。不勉強で私はよく知らないのですが、いわゆる主権を侵されている形であっても、国家を名乗る集団であれば、「国土」と主張する地域は有していると思うのです。
岩礁に近いような島嶼(トウショ)に対しても、互いに領有を主張し合う背景には、たとえ一歩でも国土の侵食を許すことは、国家存続の危機に繋がっていることを認識しているからなのでしょう。

さて、それでは「人」と「国土」を有していれば、それでもって国家といえるかといえば、それはそれで疑問といえます。
やはりそこには、人々が生活するに足る最低限の治安や秩序が保たれており、人々を養うだけの経済的基盤があり、人が人としての尊厳を最低限保つことが出来るだけの文化や制度が定着していることも必要だと思うのです。
そして何よりも、生命や生活基盤や最低限の人権を守るための体制が必要であり、その体制を守り推進していく指導者が必要であり、その指導者たちを選出する仕組みも大きな意味を持っているはずなのです。

つまり、国家指導者たち、すなわち国民の意見を代弁する人たちを選出する選挙制度も、国家が国家であるための重要な要素の一つなのです。
このところ、わが国の選挙制度について多くの意見が噴出してきており、司法当局が憲法違反とする判断が示されるに至っては、国家のほころびが浮上していると真剣に考えていく必要があるのです。
選挙制度変更による一部議員や政党の有利不利など全く考慮の必要などないのです。いわんや司法の判断に対して身の程も知らぬ発言をしている議員もいますが、しっかりとチェックしていて、そのような人物を選んだ選挙民は恥ずかしいと思うべきだと思うのです。
同時に、選挙制度というものは、どういう国家作りを標榜しているのかという重要な指針なのです。
「一票の格差」ということがまるで錦の御旗のように叫ばれている感がありますが、算数のテストではないのですから、人口比だけで単純に国会議員を選んで良いのか真剣に考えるべきだと思うのです。人口比だけを尺度にすれば、三十年後には、国会議員の八割は大都市圏の代表だけになりますよ。本当にそれで国民国土を守って行く国会議員団が選出できるのでしょうか。
繰り返しますが、人口比だけで国会議員を選ぶのは、それほど賢い方法ではないかもしれないということも、少しは考えておく必要があると思うのです。

( 2013.04.01 )
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地震予知 ・ 小さな小さな物語 ( 499 )

2013-08-17 10:14:40 | 小さな小さな物語 第九部
最近、あるテレビ番組で「地震予知」に関する討議を見る機会がありました。
この番組は、いわゆる学術的な番組ではありませんが、政治に関する話題を中心に、おざなりな意見集約ではなく、かなりきわどい内容まで放送することで知られている関西の人気番組です。
その中に一つのテーマとして、ゲスト出演しているある人物の意見は極めて明快、そして、現在の予知に関する研究や発表などを真っ向から批判するものでした。
そのゲストは、私は以前からちょっとしたフアンなのですが、なかなかその意見がわが国の地震に関する学会では受け入れられていないらしいのが残念でなりません。
といっても、その人物は、単なる受けや話題づくりで発言しているのではなく、列記とした大学教授で、それもわが国最高峰とみなされている大学の教授なのです。

その先生の意見を断片的にいくつか挙げてみますと、
* 地震予知は出来ない。現在なされている長期予報には、全くといっていいほど科学的根拠がない。
* 南海地震、東海地震など巨大地震がそう遠くない時期に発生すると断定されているが、その種の地震が周期的に発生するという科学的根拠はない。
* 東日本大地震が発生したが、わが国の中心的に地震予知に関わる研究者は、東海だ、南海だ、というだけで、東日本大地震に関しては全くマークしていなかった。
これほどのミスをすれば、野球なら当然投手交代である。しかし、研究者は誰も責任を取らない。
* 活断層など、あってもなくても巨大地震が発生すれば地滑りは起こる。素人に指摘されるような活断層の調査より、津波の方が遥かに恐ろしい。
* 原発の安全基準も、活断層の有無よりも、津波対策の適否で運転基準を考えるべきである。
* 数か月とか数年先に起こる地震の予知には、科学的根拠はほとんどない。
以上は、私が見たのをまとめたものなので、その先生の考えは完全に正しく伝えられているかどうかは自信がありませんので、その点は考慮して下さい。

因みに、東海地震に関する気象庁のホームページを見てみますと、
『 東海地震は科学的な直前予知ができる可能性があると考えられていますが、予知できる場合と予知できない場合の両方に対する備えが必要です 』
とありました。
つまり、「直前予知出来ると考えているが、出来ない場合もよろしく」ということのようです。実に正しい表記です。
それに、この直前予知というのは、数時間以内、長くても二、三日程度を考えているのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、三十年内に発生する可能性は○○%などと言うのは、ほとんど眉唾ものと考えた方が良いようです。
例えば、五十年以内に発生するかどうかなら、私は命を懸けることも出来ますよ。

最近の巨大地震が発生した場合の被害額は二百兆円にのぼるとの報道もありました。
どうも、いたずらに危機をあおって、ある種の関係者が美味しい思いをしているのではないかと疑っていましたが、その点も、その教授は明快に指摘しておりました。
まあ、地震列島というどうしても逃げ出すことのできない立地にあるわが国ですから、地震に関する研究は続けていく必要はあると思うのです。ただ、まるで科学的根拠があるような発表の仕方や、素人に指摘されるような未熟なデーターを大げさに発表しないように注意して欲しいものです。
それと、地震予知に限りませんが、とんでもない判断ミスをしたリーダーや研究集団は、しばらくは一線から少しぐらいは引いてもらわないと、何でも言いたいほうだいになってしまうような気がするのですが。

( 2013.04.04 )
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大切なもの ・ 小さな小さな物語 ( 500 )

2013-08-17 10:13:22 | 小さな小さな物語 第九部
「私たちにとって大切なものとは何でしょうか?」
このような問い掛けは、とても抽象的で答える人の焦点はずいぶん範囲が広がってしまいます。
それでは、「私たちが生存していく上で大切なものは何でしょうか?」ということになりますと、少し様子が変わってきます。
それでも、単なる生物としての生存に絶対的に必要な要素と、人間として生きていく上に必要なものとは、少しニュアンスが変わってきます。

私たちが日常生活を送って行く上で、必要とするものは数え切れないほどたくさんあります。
しかし、ぎりぎり生きていく上で必要なものに限定していけば、ある程度点数は減らせるかもしれません。
例えば、空気とか水といったものは絶対必要なものの部類に入ります。かつては「衣・食・住」という言葉があったように、これらも私たちが生活する上での必需品とされていました。しかし、単に生存することだけに絞れば、「衣と住」はなくても何とかなりますが、「食」はそうはいきません。
実は、ここしばらく私たちは、このどうしても生存に必要なものというものを、それほど重要視してこなかったように思うのです。

昨今は、大陸からの黄砂や汚染物質の飛来や、わが国の放射性物質の拡散などで、大気の汚染に強い関心が寄せられています。わが国も工業化が進められる中で大気汚染が大きな問題になりましたのは、それほど遠い昔のことではなく、現在でも各地で問題が発生しています。
水や食物に関しても、水俣病の悲劇に代表されるように各地でいくつもの深刻な被害をもたらしてきました。鉱山などの被害は、かなり古い時代に一部で認識されていたようですが、社会問題化してきたのはそれほど昔のことではありません。

「空気のような存在」などという表現の仕方があります。
居るのか居ないのかよく分からない、といった存在感の薄さを示すことが多いようですが、それでいて大切な存在だという意味に使われることもよくあります。
私たちは、ぎりぎり生存していくために必要なものは、空気のように自然に与えられるものと考えてきたように思われます。しかし、今それらが各地で蝕まれつつあるのです。それらの汚染や劣化は、我々が気がついた時には相当進行しており、問題視し始めた時には相当ひどい状態に陥っていて、回復させることは容易ではないのです。
それでも水や空気は自然現象で若干の浄化や移動が可能ですが、食物となれば、そうそう簡単ではありません。わが国では「食の安全」ということが食物に対する課題ですが、地球規模で考えれば、絶対量の不足が深刻な問題なのです。
私たちが生活していくためには、水や空気や衣食住ばかりでなく、さまざまなものが必要になってきます。そして、ややもすると、もっとも基本的なものではなく、客観的に考えれば付随的と思えるものに重要性を感じているきらいがあります。
しかし、私たちは、私たちが生存していく上で不可欠なものが、汚染し、劣化してきていることにも心を配る必要があるのではないでしょうか。

( 2013.04.07 )
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小さな小さな物語  目次

2013-08-17 10:10:52 | 小さな小さな物語 第九部
          小さな小さな物語 目次 (No.501~520)


     No.501  手に負えない
        502  地震への対応
        503  境界線
        504  環境省にエールを
        505  東京電力にエールを


        506  浮かれないで
        507  メーデーを考える
        508  祝日のことも考えよう
        509  ただ今主役中
        510  不思議な話


        511  痛みが分る
        512  知っていること
        513  普通に考える
        514  87%での決断
        515  花の重み      
 

        516  知らぬが仏
        517  限界の少し手前
        518  おとめ座銀河団
        519  完璧を期す 
        520  悩みは尽きず     
       
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手に負えない ・ 小さな小さな物語 ( 501 )

2013-08-17 10:09:46 | 小さな小さな物語 第九部
福島第一原発の状況は、依然深刻な状況が続いています。
「そもそも、原発など造ったのが間違いだった」とか、「だから私は危険だと警鐘を鳴らしてきたのだ」などとご高説を述べられる方もいらっしゃいますが、今更そんな意見など何の役にも立たないのではないでしょうか。
ここまで酷くなってしまった原因だとか、対応の悪さだとか、数え上げれば沢山あるのでしょうが、今日の状況を作ってしまった一番の原因は、早々と終息したなどと宣言するなど国家指導者が甘く見過ぎていたのではないでしょうか。
起きてしまったものは、もうどうすることも出来ないのです。

新聞やテレビなどの報道を見るだけの知識しかない私などが意見を申し上げるのは、さすがに気が引けるのですが、原子力に関する知識のトップレベルの人が集まっているものだとばかり思っていた、さる委員会の人の評論家のような会見を聞いていますと、あんな人たちに任せていて解決できるのか心配になってしまったわけです。
一連のニュースなどを見ている限り、この事故はもう東京電力だけでは手に余る状態になっていることは確かだと思うのです。手に余るなどという表現より「手に負えない」と言った方が正しいかもしれません。
このところ大活躍の官邸が、この問題に関してももっと積極的なリーダーシップを果たして欲しいと思うのです。
そして、評論家や評論家らしい方々の意見は意見として、もっと実務や技術面に関して、オールジャパンの体制を構築しないことには、今世紀内の収束は難しいのではないでしょうか。
当然そのオールジャパンの中心戦力は、東京電力が中心になるのは当然ですが、それは、同社を始めとした電力各社や原発関連メーカーに知識や技術力に優れている人が多いからであって、事故責任などとは別の観点から選出すべきだと思うのです。

直接にしろ間接にしろ、原発事故に起因する被害を受けている方たちにとっては、まことにお気の毒なことではありますが、今は、有能な人材や技術を集結させて、何としても収束への道筋を作り上げる必要があります。
責任や補償などは、官邸が主体となって対応すべきだと思うのです。そんなことになれば、一企業である東京電力を救うことになると、又々卓見を示される方が登場しそうですが、たとえそうでもいいじゃありませんか。いくら憎っくき東京電力だといっても、本当に消滅させてしまって何か良いことがあるのでしょうか。そんなことより、資金も知識も人材も投入して、とりあえず完全に安定化させることが必要なはずです。

「手に負えない」ものはあります。
常識の通じない人や団体はあるものです。
多くの子供も、ある時期はとうてい「手に負えない」と親を泣かせるものです。
福島第一原発の事故も「手に負えない」状態になっているのです。
しかし、いくら「手に負えない」からといって、親は子供を見放しません。
「手に負えない」状態にある原発事故は、今こそわが国の知恵と根性が試されているのではないでしょうか。官邸の強いリーダーシップを願うばかりです。

( 2013.04.13 )
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地震への対応 ・ 小さな小さな物語 ( 502 )

2013-08-17 10:08:45 | 小さな小さな物語 第九部
十三日の早朝、淡路島を震源とする震度6弱の地震が発生しました。
当地も震度4ということで、かなりの揺れを感じました。私はその時散歩に出ていたのですが、鉄骨造りと思われる個人家屋としては大きな住宅の横を歩いているときに発生しました。
私は、強い地震を屋外で経験するのは初めてだったのですが、突然建物全体が震えだし、それ以上に地鳴りなのでしょうか、不気味な音が恐ろしく感じました。
その不気味な音はかなり大きく、とっさに私はその家で爆発かあるいはトラックのようなものでも飛び込んだのではないかと思いました。そう思ったとたんに建物が震えだしたものですから、電線の揺れを見て地震と判断できました。

そして、その次に連想したものは、阪神淡路大地震の記憶でした。
忘れていたわけではないのですが、いつか私の中で過去の思い出になっていたことを痛感しました。
急いで自宅に戻り、テレビニュースにより、地震の程度を知ることが出来ました。
震源地に近い辺りでは建物の被害も出ていますし、怪我人も二十数人出ているようです。被害の詳細はまだこれからなのでしょうが、壊滅的な被害を受けた地区はなかったようです。

今回の地震に対して、兵庫県の防災システムは、地震発生の7分後に、「建物全半壊1948戸、避難者1万6778人」などとする被害予測を算出していたそうです。
実際は、どちらもごくわずかで、それ自体は結構なのですが、およそ何の役にもならない予測データーといえます。
これに対して知事いわく、「想定が大きい方が現実には役に立つ」と予測の意義を強調されたそうです。「大きめに出たデーターは今後チェックしたい」とも発言しているそうですが、「現段階では何の役にも立たなかった」と発言すべきだと思うほどのひどい誤差だと思うのです。

兵庫県の場合、阪神淡路大地震の経験から、予測や対策に神経質になっていることはよく分かります。
東日本大地震の場合は、まだ記憶も新しく、この災害を経験したことによって、過大な予測や、本当に科学的根拠があるのか眉に唾をつけたいような意見や理論が、大きな顔をしているような気がしています。
巨大地震の予測や、活断層の危険性など、本当にどの程度科学的なデーターに基づいているものなのか、自称専門家だけではない英知を集めて検討してみる必要があるのではないでしょうか。
「危機に備えて、実際に発生しなければラッキー」だという考え方は、一見正しいようにも思えてしまうのですが、そんなのは全く科学的な判断とはいえないと思うのです。
例えば、今回の地震について、予知に関する専門家と称する方々のうち何人ぐらいが、どのような可能性を示していたのでしょうか。
それとも、「震度6弱程度」は、予知に値する地震には入らないのでしょうか。
結局私たちにとって、予知などあてにしないで、過去の経験を忘れないで非常食など最低限の備えを守ることが大切なのかもしれません。

( 2013.04.16 )
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境界線 ・ 小さな小さな物語 ( 503 )

2013-08-17 10:06:44 | 小さな小さな物語 第九部
水俣病の認定に関する裁判の最高裁判断が示されました。
もう、若い人たちの中には、水俣病という不幸な出来事を知らない人も少なくないのではないでしょうか。発展過程がわが国より遅れている他国の環境問題に関しては、まるで聖人君子のごとき立派な意見を述べることが出来る私たちが、発生から五十年以上も経ってもなお今回の裁判を続けていることに恥ずかしいと思う必要はないのでしょうか。
水俣病が、チッソ水俣工場の排水にメチル水銀が含まれていて、汚染された魚介類を食べた人に神経性の中毒を発生させたものであることを、公式に確認されたのが1956年(昭和三十一年)のことです。実際の発生はもっと以前に遡るわけですから、半世紀どころの問題ではないのです。
発生してしまった不幸もさることながら、その治療や補償などに関する境界線の引き方が、あまりにも被害者に冷たいために、今回のような裁判が多発しているわけでしょう。

しかし、同時に、何につけても境界線を引くことは難しいものです。
先日も淡路島を震源とする地震がありましたが、東日本大地震の補償や、原発事故の補償などにおいても、境界線を引くことは極めて難しい作業になることでしょう。
被災者、あるいは被害者に有利に判定すればよいのかといいますと、実はそうでもないのが境界線の難しい所なのです。
例えば、原発事故に関して考えた場合、誰がどのように負担するかは別にして、自ずから保障財源には限度があります。東京電力をつぶそうが、国家財政が傾くほど国家予算から投入するとしても、保障財源に限度があることには変わりがありません。そうすると、被災者などの保障を手厚くすればするほど境界線は狭くなるでしょうし、広げれば広げるほど保障は薄くなってしまいます。
隣家との境界線や日照権でのトラブルはよく耳にしますし、大きくいえば国境や領海に関するトラブルも、境界線を引くことの難しさの代表的なものといえます。

また、法律に関する判断にも境界線があるようです。
ある裁判の判決にあたって、裁判官の判断が有罪無罪が「3対2」に分かれたような場合、どう境界線を引くのが正しいのでしょうか。おそらく多数決になるのでしょうが、法的にはともかく、絶対正義というものがあるとした場合、その境界線の引き方は正しいのでしょうか。
大阪を中心に、議員たちが未熟な法令を好き勝手に操って納税を逃れていることが表面化してきています。おそらく大阪だけのことではないと思うのですが、法律の境界線を自由勝手に収縮する輩を、なんとかからめ捕る境界線を引くことは出来ないのでしょうか。

私たちの日常生活もまた、多くの境界線の中にあるといえます。
わが家のすぐ前に横断歩道があるのですが、その横断歩道さえはみ出て歩いている人が少なくないのですから、他の人が設えた境界線を破ることにはあまり罪の意識はないようです。そのくせ、自分の引いた境界線への侵入には極めて神経質なのが一般的なようです。
まあ、横断歩道なら交通事故さえ起きなければ良いのかもしれませんが、人間関係の微妙な境界線は、犯す場合も犯された場合も、分別なり良識なりの弾力性が必要な気がするのです。

( 2013.04.19 )
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環境省にエールを ・ 小さな小さな物語 ( 504 )

2013-08-17 10:03:48 | 小さな小さな物語 第九部
ふと思ったのですが、里山が荒れているということがよく話題になったことがありましたが、最近この種のニュースをあまり見掛けないような気がするのです。
私自身も、里山や里海に関して少々興味を持った時期があるのですが、最近は御無沙汰です。
多くの人の努力により、里山の環境が良好になったのか、反対に雑草や竹の勢いに占領されてしまって、それも自然の形だと割り切ってしまったかのどちらかなのでしょうか。
あるいは、東日本大地震やそれに伴う原発事故の惨状を見せつけられてしまうと、里山が竹林になってしまうことなど、ニュースとしての価値が無いためなのでしょうか。

わが国の環境に関する諸問題を所管するのは環境省ということになります。
環境問題に関することに時の政権が関心を持ち責任を持つことは、何も近代になってからのことではなく、国家体制、あるいはそれらしい政治体制が構築された時から実施されてきたことだと考えられます。
ただ、わが国に中央省庁の一つとして環境省が設置されたのは比較的最近のことです。
昭和四十六年(1971)七月に、前身である環境庁が発足しました。この時には、それまで総理府・厚生省・通商産業省・経済企画庁・林野庁が担当していた業務の一部を引き継いだそうですから、その担当分野の広さがよく分かります。
平成十三年(2001)一月に環境省に昇格し、さらに守備範囲を広げ、一人前の省庁の一つになったわけです。
環境省の設置法には、その目的として、「地球環境保全。公害の防止。自然環境の保護及び整備、その他環境の保全(良好な環境の創出を含む)。原子力の研究・開発及び利用における安全の確保を図ること」を任務とする、とあります。そして、具体的な事項が25号に渡って明記されています。
どうですか? 環境省って大変な役所なんですねぇ。

環境に関する問題は、私たちにとって日常生活と密接に接している部分が少なくありません。
ゴミの問題、里山や空き地の問題、騒音や異臭や排気ガス、花粉や黄砂やPPM2.5 など、比較的身近な問題が多いわけですが、天候異変や食物の安全性確保や伝染病なども、厚生労働省や文部科学省というより環境問題の延長線として考える人も少なくないようです。
つまり、環境に関する問題は、これまでは経済産業省や厚生労働省などの問題として考えられていた問題も、環境問題として考えてしまう傾向が強くなっている気がするのです。その上、原発事故に関することまでも加えられたのでは環境省の職員の方々もたまったものではないことでしょう。
しかし、わが国だけではないのでしょうが、環境省に割り当てられる予算は余りに少なく、職員の人数も少ないように思われます。

現在、私たちが当たり前と考えている日常の生活を送るための環境は、今後悪化していくことが懸念されています。
一部の外国などと比べますと、大気汚染や水資源などは、いかにわが国が恵まれているか痛感されます。公衆衛生や、治安なども、環境問題に加えるのは無理がありますが、やはり相当恵まれているといえます。
しかし、わが国は、これから人口が減少していく社会を経験していくわけです。当然これに伴う人口移動が行われ、全国一律に人口が減って行くわけではなく、過密地域と過疎地域が一層激しくなる可能性があります。当然そこに新しい環境問題が発生してくることでしょう。
国民の日常生活を守る主体は、環境問題も含めて環境省ではなく、地方行政だと思うのですが、同時に、国家を挙げて取り組まなくてはならない地球規模の環境問題も次々と発生してくることが懸念されています。
人口減少に赤字財政というわが国ですが、環境省に今少し資金と人材を投入していくことが、近い将来のわが国の安全のために必要な気がしているのです。
環境省の活躍にエールを送るとともに、私たちも、もっともっと環境省の活動に関心を抱くべきだと思うのです。

( 2013.04.22 )
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