運命紀行
北朝を護った公卿
南北朝と呼ばれる時代は、後醍醐が京都の光明天皇に対抗して大和国吉野に拠点を持った建武三年(1336)から、足利義満の仲介により南北朝の合一が実現した明徳三年(1392)までの、六十年弱の期間を指すのが一般的である。
南北朝時代といえば、後醍醐と足利尊氏との抗争を思い描くことが多いが、実は、わが国の長い天皇制の歴史の中で、その存続が危機に瀕した時期の一つと捉まえることが出来るのである。
物語などでは、南朝に関する勇ましい物語も数多く伝えられているが、客観的に見れば、足利尊氏を中心とした勢力に対して、吉野朝廷は武力・経済力共に圧倒的に脆弱といえる。
同時に、北朝と呼ばれることになる京都朝廷は、後醍醐という強烈な人物に圧倒されがちであり、北朝政権単独で南朝を制圧することなど困難な情勢であった。
しかも時代は、公家政治から武士が主導権を握る時代へと動いており、南北両朝廷とも、存続させていくことが極めて厳しい状態にあったのである。
その時代にあって、もちろん南朝においても同様の動きがあったのであろうが、脆弱な北朝朝廷にあって、ふてぶてしいほどに逞しく、朝廷並びに公家政治を護り抜こうとした公卿たちがいた。
二条良基という公卿は、その代表的な人物なのである。
二条良基は、元応二年(1320)に誕生した。北条政権の末期で、まだ足利氏が台頭する以前のことである。
父は二条道平、母は西条寺公顕の娘である。
二条家は、藤原北家九条流支流であるが五摂家の一つに数えられる名門である。良基は、名門御曹司を絵に描いたような形で昇進していく。
嘉暦二年(1327)、八歳で元服するとともに正五位下侍従となり、二年後には、従三位中納言に昇進する。
ところが、十三歳の時、後醍醐が隠岐島に流されることになる元弘の変が起こり、内覧の地位にあった父・道平も倒幕に関与した疑いで幽閉され、良基も権中納言兼左近衛中将の地位を追われた。さらに、鎌倉幕府は二条家の断絶を命じ、存続の危機に追い込まれた。
ところが、ほどなく鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐は京都に復帰し建武の新政を開始した。
後醍醐天皇に仕える父・道平は、近衛経忠とともに内覧、藤原氏長者として建武政権の中枢となり、新政が実質的に開始された元弘三年(1333)には、姉の栄子は後醍醐の女御となり、良基も十四歳で従二位に叙された。
危機的状態から一気に絶頂期に向かったとみられた二条家であったが、建武二年(1335)に父・道平が急逝し、翌三年(1336)には後醍醐が足利尊氏によって政権を追われてしまった。
後醍醐は吉野に逃れ、吉野朝廷を成立させた。南北朝時代の始まりである。
この時、叔父の師基は後醍醐のもとに参じたが、権大納言となっていた良基は、後見役ともいえる曾祖父師忠(大伯父とも)と共に京都に残り、北朝と呼ばれることになる光明天皇に仕えることになる。
良基は後醍醐の恩顧も受け敬愛していたともいわれるが、後醍醐から離れる何らかの理由があったのか、不明である。
そして、足利氏が擁立した光明天皇の元服・践祚の儀式が二条家の邸宅である押小路烏丸殿で行われたことを考え合わせると、相当の意志で後醍醐のもとを離れたと思えるのである。
光明天皇、そして足利尊氏もこれに応えて、暦応元年(1338)には良基を花形である左近衛大将を兼務させ、二年後には内大臣に抜擢した。良基二十一歳のことである。
この前後に、母と後見役の師忠を亡くしているが、北朝朝廷の有力公卿として存在感を高め、併せて有職故実を学び朝議・公事の伝統維持に務めた。
康永二年(1346)には右大臣に任命されたが、同時に左大臣には有職故実の大家として名高い洞院公賢が任じられた。この後二人は北朝朝廷内で長く主導権争いをすることになる。
洞院公賢は、良基より三十歳ほども年長であり、知識経験共に遥かに上回っていた。さらに、一条経通と鷹司師平の前・現関白は公賢の娘婿であり良基にとって手ごわい相手であった。それでも、家格というものが絶対的な権威を有していた時代であり、摂関家でない西園寺家の庶流である洞院公賢の下風に立ち続けることは、気鋭の良基には我慢がならなかったようである。
貞和二年(1346)、良基はついに関白に、そして藤原氏長者に任命された。二十七歳の時である。
南朝は七年前に後醍醐が没し、後村上が南朝天皇に就いていたが、その勢力は依然予断を許さないものであった。
北朝は、この二年後に崇光天皇に譲位されるが、新天皇は十五歳で、光明に続き若い天皇の即位となり、朝廷の最高権力者は治天の君である光厳上皇であったが、良基は光厳上皇の院評定にも加わっており、存在感はますます増大していった。
しかし、その一方で、崇光即位式などに関して、摂関家が受け継いでいる有職故実に基づくことを強く主張し、光厳上皇や洞院公賢らと衝突し、良基の主張は「偏執に過ぎる」との非難を受けている。
北朝が内部の権力闘争に明け暮れているうちに、足利氏内部ではさらに深刻な抗争が起こり、観応二年(1351)に足利尊氏が南朝に降伏するという事件が起こってしまう。このため「正平の一統」が成立し、十一月七日には北朝天皇や年号が廃止され、良基の関白職も停止された。さらに、光明・崇光両天皇期の任官はすべて無効とされ、良基は後醍醐時代の従二位権大納言に戻された。その一方で、洞院公賢は改めて左大臣に任命された。南朝ではすでに叔父の二条師基が関白に任じられていて、良基の立場は苦しいものとなった。
良基は心労のため病に倒れたりしたが、南朝の後村上天皇に接近する動きも見せている。
しかし、時代は激しく動いていた。
翌観応三年(1352)、京都を占拠していた南朝軍が、崇光・光明の二人の上皇と、皇太子直仁親王を京都から連行してしまったのである。このため、足利尊氏の嫡男義詮は南朝との和議を破棄し、同時に洞院公賢らが模索していた、直仁親王を後村上天皇の皇太子として、両統迭立を復活させる構想も瓦解した。
足利義詮は、光厳上皇の母・広義門院の命を受ける形で、新たに崇光の弟・弥仁王(後光厳)を擁立させる計画を立て、そのため良基を関白に復帰させようとした。足利将軍家と広義門院が主導して、南朝の行った人事を無効とし、崇光天皇在任時の官位に戻したのである。
良基は、勧修院経顕や松殿忠嗣ら側近と共に北朝の再建に務めた。しかし、朝廷内には、三種の神器のない天皇の即位に異論も多かった。しかし、良基は、「尊氏が剣となり、良基が璽(ジ・天子の印章)となる。何ぞ不可ならん」と、大見得を切ったという。傲慢なほどの自信であるが、同時に北朝の将来像を示していたように思われる。
この過程で洞院公賢ら和平構想を描いた勢力の政治力は低下し、北朝朝廷は、年若い新帝と政治経験のない広義門院を支える形で、良基とその側近ら、九条経教・近衛道嗣ら新帝支持を決断した少数の公卿たちで運営していくことになるのである。
だが、翌年六月には、早くも南朝側の反撃にあい、後光厳天皇が延暦寺を経て美濃国の土岐氏を頼るという状態に追い込まれた。良基も、体調を崩していたが天皇の後を追った。
この間に、良基の押小路烏丸殿を占拠した南朝方は、良基は後光厳擁立の張本人と断罪し、残されていた二条家伝来の書物や文書などを押収し叔父の二条師基のもとに送られてしまった。
この騒動は、尊氏の出陣を得て、天皇は十月には京都に戻っている。
南朝の反撃は続き、文和三年(1354)暮にも、天皇が良基らと近江国に退去する状態が発生したが、これは短期に終息している。
しかし、度重なる争乱に京都は荒廃し、食糧不足は深刻な状態となり、足利氏による支援が行われたりしている。また、朝廷においても、南北両庁が互いに解官や所領没収が繰り返され没落していく公卿も少なくなく、北朝朝廷では、経験や家格を満たさないまま官職に付けざるを得ない状態も多く、朝議や公事は質の低下を招いていた。
良基は政治を主導するとともに、朝廷行事や伝統の保持や礼儀作法の指導などにも奔走していたが、奈良興福寺の内紛に関わることで大きな痛手を受けることになる。
興福寺は藤原氏の氏寺であるが、平安の一時期には、春日大社も影響下に置き、大和国の荘園の殆どを手中にしていた程で、武力・経済力共に比叡山に匹敵する力を保持していた。
この内紛は、延文二年(1357)、南朝方についた近衛経忠の子・実玄を一条院門主から排斥しようとして、北朝方の大乗院が引き起こしたものであるが、藤原氏長者の地位にある良基はその調停にあたった。
その内容が、近衛経忠の系統を近衛家嫡流とし、自分の猶子・良玄を実玄の後継者とするというものであった。
これにより、良基らと共に北朝に尽力してきた近衛道嗣は近衛家嫡流から外れ、摂関職就任の資格を失うこととなった。さらに、一条院は近衛流が、大乗院は二条家を含む九条流が管轄することになっていた伝統を崩すことでもあった。
この裁定には、興福寺や近衛道嗣や洞院公賢(孫娘が道嗣の正室)らが強行に不満を申し立てた。
さらに、南朝方を興福寺から排除したいと考えていた足利政権も、良基に圧力を加えるようになった。
ここに、ついに良基は関白職を辞任することを決意し、延文三年(1358)十二月、九条経教と交代した。
二十九歳から十三年にも及ぶ関白職の辞任であった。
* * *
二条良基が延文三年に関白職辞任に追い込まれた時は、まだ三十九歳の働きざかりであった。しかも、自信にあふれふてぶてしいほどの逞しい性格の持ち主らしく、関白辞任程度で消え去るような人物ではなかったようである。
関白の座を追われた後も内覧の地位にあり、自ら太閤と称し、朝廷に少なからぬ影響力を持ち続け、一方では文化面での業績も積み重ねている。
この後も、南朝との関係は依然解決に至らず、足利政権内部でも混乱が頻発し、足利幕府が安定を見せるのは三代将軍義満になってからのことである。
また、興福寺の内紛が再発し、良基が興福寺衆徒から「放氏」処分を受けるという事件も起きている。
放氏とは、その一族から追放するということであって、藤原氏一族から追放されるということは、官位などあらゆる職権を失うという厳しいものである。本来は、氏長者の持つ権限であるが、興福寺衆徒はその権限を行うほどの力をもっていたことになる。
しかし、この時も良基は、藤原氏長者にあったものが放氏処分を受けることはないと決定を無視し、興福寺の圧力に譲歩を迫られながらも乗り越えている。
良基は六十九歳で世を去ることになるが、その間際まで北朝政権の指導的な立場であり続けた。
関白職に就くことは四回(最初の関白在任は、途中南朝に攻められ中断した期間があるので、これを二回と数えると全部で五回となる)に及び、北朝の危機ごとに良基の力が必要とされ、良基自身も積極的に尽力した。
特に、三代義満政権とは接近を図り、北朝の軍事力不足を幕府の力を借りることで解決させようと構想し、義満を北朝朝廷の重職に引き込んでいっている。
良基の努力により幕府の力を北朝朝廷に取り入れることに成功したのか、幕府が朝廷を監視下に置くことに成功したのか、その判断は微妙であるが、これによって北朝が南朝に対して圧倒的な優位に立ったことは間違いあるまい。
また、二条良基という人物を語る時、文化面の功績が大きく評価されている。
有職故実に明るく、朝廷行事や礼節の継承に果たした功績は少なくない。残された著作も多く、和歌、連歌、蹴鞠などに優れ、特に連歌はその大成者ともいわれている。
そして、今一つ、わが国芸能史における巨星ともいえる能の世阿弥の少年時代に、良基か指導に当たったと伝えられている。身分制度の厳しい時代において、公卿が芸能者を指導するなどということは珍事といえるほどのことである。世阿弥の功績は自身の才能によることは間違いないが、その質を高めるのに少なからぬ影響があったはずである。
嘉永二年(1388)四月、摂政近衛兼嗣が急逝すると、良基が後任を託された。
この頃、すでに体調を崩していたのをおして就任するが、六月十二日には摂政を辞任し関白に就くが、その日のうちに息子の師嗣に譲る意向を天皇に伝え了承を得た。
そして、翌日十三日、波乱の生涯を終えた。享年六十九歳であった。
南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡して南北朝合一が実現するのは、四年余り後の明徳三年(1392)のことである。
二条良基は、その強烈な個性と指導力のため、敵対する南朝側ばかりでなく北朝内にも反感をもつ人物は少なくないとされる。
しかし、二条良基という人物が、北朝を護りきり、朝廷存続に少なからぬ貢献があったことを今少し評価されてもよいような気がする。
( 完 )
北朝を護った公卿
南北朝と呼ばれる時代は、後醍醐が京都の光明天皇に対抗して大和国吉野に拠点を持った建武三年(1336)から、足利義満の仲介により南北朝の合一が実現した明徳三年(1392)までの、六十年弱の期間を指すのが一般的である。
南北朝時代といえば、後醍醐と足利尊氏との抗争を思い描くことが多いが、実は、わが国の長い天皇制の歴史の中で、その存続が危機に瀕した時期の一つと捉まえることが出来るのである。
物語などでは、南朝に関する勇ましい物語も数多く伝えられているが、客観的に見れば、足利尊氏を中心とした勢力に対して、吉野朝廷は武力・経済力共に圧倒的に脆弱といえる。
同時に、北朝と呼ばれることになる京都朝廷は、後醍醐という強烈な人物に圧倒されがちであり、北朝政権単独で南朝を制圧することなど困難な情勢であった。
しかも時代は、公家政治から武士が主導権を握る時代へと動いており、南北両朝廷とも、存続させていくことが極めて厳しい状態にあったのである。
その時代にあって、もちろん南朝においても同様の動きがあったのであろうが、脆弱な北朝朝廷にあって、ふてぶてしいほどに逞しく、朝廷並びに公家政治を護り抜こうとした公卿たちがいた。
二条良基という公卿は、その代表的な人物なのである。
二条良基は、元応二年(1320)に誕生した。北条政権の末期で、まだ足利氏が台頭する以前のことである。
父は二条道平、母は西条寺公顕の娘である。
二条家は、藤原北家九条流支流であるが五摂家の一つに数えられる名門である。良基は、名門御曹司を絵に描いたような形で昇進していく。
嘉暦二年(1327)、八歳で元服するとともに正五位下侍従となり、二年後には、従三位中納言に昇進する。
ところが、十三歳の時、後醍醐が隠岐島に流されることになる元弘の変が起こり、内覧の地位にあった父・道平も倒幕に関与した疑いで幽閉され、良基も権中納言兼左近衛中将の地位を追われた。さらに、鎌倉幕府は二条家の断絶を命じ、存続の危機に追い込まれた。
ところが、ほどなく鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐は京都に復帰し建武の新政を開始した。
後醍醐天皇に仕える父・道平は、近衛経忠とともに内覧、藤原氏長者として建武政権の中枢となり、新政が実質的に開始された元弘三年(1333)には、姉の栄子は後醍醐の女御となり、良基も十四歳で従二位に叙された。
危機的状態から一気に絶頂期に向かったとみられた二条家であったが、建武二年(1335)に父・道平が急逝し、翌三年(1336)には後醍醐が足利尊氏によって政権を追われてしまった。
後醍醐は吉野に逃れ、吉野朝廷を成立させた。南北朝時代の始まりである。
この時、叔父の師基は後醍醐のもとに参じたが、権大納言となっていた良基は、後見役ともいえる曾祖父師忠(大伯父とも)と共に京都に残り、北朝と呼ばれることになる光明天皇に仕えることになる。
良基は後醍醐の恩顧も受け敬愛していたともいわれるが、後醍醐から離れる何らかの理由があったのか、不明である。
そして、足利氏が擁立した光明天皇の元服・践祚の儀式が二条家の邸宅である押小路烏丸殿で行われたことを考え合わせると、相当の意志で後醍醐のもとを離れたと思えるのである。
光明天皇、そして足利尊氏もこれに応えて、暦応元年(1338)には良基を花形である左近衛大将を兼務させ、二年後には内大臣に抜擢した。良基二十一歳のことである。
この前後に、母と後見役の師忠を亡くしているが、北朝朝廷の有力公卿として存在感を高め、併せて有職故実を学び朝議・公事の伝統維持に務めた。
康永二年(1346)には右大臣に任命されたが、同時に左大臣には有職故実の大家として名高い洞院公賢が任じられた。この後二人は北朝朝廷内で長く主導権争いをすることになる。
洞院公賢は、良基より三十歳ほども年長であり、知識経験共に遥かに上回っていた。さらに、一条経通と鷹司師平の前・現関白は公賢の娘婿であり良基にとって手ごわい相手であった。それでも、家格というものが絶対的な権威を有していた時代であり、摂関家でない西園寺家の庶流である洞院公賢の下風に立ち続けることは、気鋭の良基には我慢がならなかったようである。
貞和二年(1346)、良基はついに関白に、そして藤原氏長者に任命された。二十七歳の時である。
南朝は七年前に後醍醐が没し、後村上が南朝天皇に就いていたが、その勢力は依然予断を許さないものであった。
北朝は、この二年後に崇光天皇に譲位されるが、新天皇は十五歳で、光明に続き若い天皇の即位となり、朝廷の最高権力者は治天の君である光厳上皇であったが、良基は光厳上皇の院評定にも加わっており、存在感はますます増大していった。
しかし、その一方で、崇光即位式などに関して、摂関家が受け継いでいる有職故実に基づくことを強く主張し、光厳上皇や洞院公賢らと衝突し、良基の主張は「偏執に過ぎる」との非難を受けている。
北朝が内部の権力闘争に明け暮れているうちに、足利氏内部ではさらに深刻な抗争が起こり、観応二年(1351)に足利尊氏が南朝に降伏するという事件が起こってしまう。このため「正平の一統」が成立し、十一月七日には北朝天皇や年号が廃止され、良基の関白職も停止された。さらに、光明・崇光両天皇期の任官はすべて無効とされ、良基は後醍醐時代の従二位権大納言に戻された。その一方で、洞院公賢は改めて左大臣に任命された。南朝ではすでに叔父の二条師基が関白に任じられていて、良基の立場は苦しいものとなった。
良基は心労のため病に倒れたりしたが、南朝の後村上天皇に接近する動きも見せている。
しかし、時代は激しく動いていた。
翌観応三年(1352)、京都を占拠していた南朝軍が、崇光・光明の二人の上皇と、皇太子直仁親王を京都から連行してしまったのである。このため、足利尊氏の嫡男義詮は南朝との和議を破棄し、同時に洞院公賢らが模索していた、直仁親王を後村上天皇の皇太子として、両統迭立を復活させる構想も瓦解した。
足利義詮は、光厳上皇の母・広義門院の命を受ける形で、新たに崇光の弟・弥仁王(後光厳)を擁立させる計画を立て、そのため良基を関白に復帰させようとした。足利将軍家と広義門院が主導して、南朝の行った人事を無効とし、崇光天皇在任時の官位に戻したのである。
良基は、勧修院経顕や松殿忠嗣ら側近と共に北朝の再建に務めた。しかし、朝廷内には、三種の神器のない天皇の即位に異論も多かった。しかし、良基は、「尊氏が剣となり、良基が璽(ジ・天子の印章)となる。何ぞ不可ならん」と、大見得を切ったという。傲慢なほどの自信であるが、同時に北朝の将来像を示していたように思われる。
この過程で洞院公賢ら和平構想を描いた勢力の政治力は低下し、北朝朝廷は、年若い新帝と政治経験のない広義門院を支える形で、良基とその側近ら、九条経教・近衛道嗣ら新帝支持を決断した少数の公卿たちで運営していくことになるのである。
だが、翌年六月には、早くも南朝側の反撃にあい、後光厳天皇が延暦寺を経て美濃国の土岐氏を頼るという状態に追い込まれた。良基も、体調を崩していたが天皇の後を追った。
この間に、良基の押小路烏丸殿を占拠した南朝方は、良基は後光厳擁立の張本人と断罪し、残されていた二条家伝来の書物や文書などを押収し叔父の二条師基のもとに送られてしまった。
この騒動は、尊氏の出陣を得て、天皇は十月には京都に戻っている。
南朝の反撃は続き、文和三年(1354)暮にも、天皇が良基らと近江国に退去する状態が発生したが、これは短期に終息している。
しかし、度重なる争乱に京都は荒廃し、食糧不足は深刻な状態となり、足利氏による支援が行われたりしている。また、朝廷においても、南北両庁が互いに解官や所領没収が繰り返され没落していく公卿も少なくなく、北朝朝廷では、経験や家格を満たさないまま官職に付けざるを得ない状態も多く、朝議や公事は質の低下を招いていた。
良基は政治を主導するとともに、朝廷行事や伝統の保持や礼儀作法の指導などにも奔走していたが、奈良興福寺の内紛に関わることで大きな痛手を受けることになる。
興福寺は藤原氏の氏寺であるが、平安の一時期には、春日大社も影響下に置き、大和国の荘園の殆どを手中にしていた程で、武力・経済力共に比叡山に匹敵する力を保持していた。
この内紛は、延文二年(1357)、南朝方についた近衛経忠の子・実玄を一条院門主から排斥しようとして、北朝方の大乗院が引き起こしたものであるが、藤原氏長者の地位にある良基はその調停にあたった。
その内容が、近衛経忠の系統を近衛家嫡流とし、自分の猶子・良玄を実玄の後継者とするというものであった。
これにより、良基らと共に北朝に尽力してきた近衛道嗣は近衛家嫡流から外れ、摂関職就任の資格を失うこととなった。さらに、一条院は近衛流が、大乗院は二条家を含む九条流が管轄することになっていた伝統を崩すことでもあった。
この裁定には、興福寺や近衛道嗣や洞院公賢(孫娘が道嗣の正室)らが強行に不満を申し立てた。
さらに、南朝方を興福寺から排除したいと考えていた足利政権も、良基に圧力を加えるようになった。
ここに、ついに良基は関白職を辞任することを決意し、延文三年(1358)十二月、九条経教と交代した。
二十九歳から十三年にも及ぶ関白職の辞任であった。
* * *
二条良基が延文三年に関白職辞任に追い込まれた時は、まだ三十九歳の働きざかりであった。しかも、自信にあふれふてぶてしいほどの逞しい性格の持ち主らしく、関白辞任程度で消え去るような人物ではなかったようである。
関白の座を追われた後も内覧の地位にあり、自ら太閤と称し、朝廷に少なからぬ影響力を持ち続け、一方では文化面での業績も積み重ねている。
この後も、南朝との関係は依然解決に至らず、足利政権内部でも混乱が頻発し、足利幕府が安定を見せるのは三代将軍義満になってからのことである。
また、興福寺の内紛が再発し、良基が興福寺衆徒から「放氏」処分を受けるという事件も起きている。
放氏とは、その一族から追放するということであって、藤原氏一族から追放されるということは、官位などあらゆる職権を失うという厳しいものである。本来は、氏長者の持つ権限であるが、興福寺衆徒はその権限を行うほどの力をもっていたことになる。
しかし、この時も良基は、藤原氏長者にあったものが放氏処分を受けることはないと決定を無視し、興福寺の圧力に譲歩を迫られながらも乗り越えている。
良基は六十九歳で世を去ることになるが、その間際まで北朝政権の指導的な立場であり続けた。
関白職に就くことは四回(最初の関白在任は、途中南朝に攻められ中断した期間があるので、これを二回と数えると全部で五回となる)に及び、北朝の危機ごとに良基の力が必要とされ、良基自身も積極的に尽力した。
特に、三代義満政権とは接近を図り、北朝の軍事力不足を幕府の力を借りることで解決させようと構想し、義満を北朝朝廷の重職に引き込んでいっている。
良基の努力により幕府の力を北朝朝廷に取り入れることに成功したのか、幕府が朝廷を監視下に置くことに成功したのか、その判断は微妙であるが、これによって北朝が南朝に対して圧倒的な優位に立ったことは間違いあるまい。
また、二条良基という人物を語る時、文化面の功績が大きく評価されている。
有職故実に明るく、朝廷行事や礼節の継承に果たした功績は少なくない。残された著作も多く、和歌、連歌、蹴鞠などに優れ、特に連歌はその大成者ともいわれている。
そして、今一つ、わが国芸能史における巨星ともいえる能の世阿弥の少年時代に、良基か指導に当たったと伝えられている。身分制度の厳しい時代において、公卿が芸能者を指導するなどということは珍事といえるほどのことである。世阿弥の功績は自身の才能によることは間違いないが、その質を高めるのに少なからぬ影響があったはずである。
嘉永二年(1388)四月、摂政近衛兼嗣が急逝すると、良基が後任を託された。
この頃、すでに体調を崩していたのをおして就任するが、六月十二日には摂政を辞任し関白に就くが、その日のうちに息子の師嗣に譲る意向を天皇に伝え了承を得た。
そして、翌日十三日、波乱の生涯を終えた。享年六十九歳であった。
南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡して南北朝合一が実現するのは、四年余り後の明徳三年(1392)のことである。
二条良基は、その強烈な個性と指導力のため、敵対する南朝側ばかりでなく北朝内にも反感をもつ人物は少なくないとされる。
しかし、二条良基という人物が、北朝を護りきり、朝廷存続に少なからぬ貢献があったことを今少し評価されてもよいような気がする。
( 完 )