運命紀行
鎮西探題攻防
元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出して、伯耆国の名和長年に奉じられて四方の軍勢の招集にかかった。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王は楠木正成などと共に苦戦を強いられながら吉野や河内を中心に倒幕活動を続けていて、天皇の隠岐島脱出は反北条勢力に勢いづけることとなった。
大塔宮は、諸国の社寺や豪族たちに令旨を発し決起を促していた。これに応じて、播磨の赤松氏、四国伊予の土居氏・得能氏らが挙兵した。
そして九州にも、「鎮西探題北条英時、および一族の桜田師頼を討て」という元弘三年二月七日付の大塔宮の令旨が到着した。鎌倉御家人も含む有力豪族に広く発せられたもので、菊池武時もその一人であったと考えられる。
これに対して、倒幕方の動きを察知した北条英時は、反乱を未然に防ぐため、九州の地頭御家人を博多に招集した。
菊池武時は、この召集に応じて一族一門二百五十騎を率いて出立、その中には幼い孫まで加わっており、再び故郷菊池の地を踏まぬ覚悟の出陣に見えた。
鎮西探題は、文永の役・弘安の役という蒙古軍の来襲を受け、九州の防備並びに統括の必要性から博多に合議訴訟機関を設置したことに始まる。当初は、鎌倉から派遣された三人の使者と、九州の有力守護である少弐・大友・島津の三氏による合議機関を作り、それがやがて正応六年(1293)、九州における武家統率の最高機関である鎮西探題となった。
これにより、鎌倉政権、つまり北条氏による九州での権限・権益は強まる一方で、豪族たちの不満は募っていた。
武時に率いられた菊池一門の決起は、鎮西探題北条英時からの召集に応じた形であるが、大塔宮の令旨に応えて幕府の九州における拠点である鎮西探題を攻撃する決意を抱いていた。
当然のことながら、少弐・大友ら有力豪族とは意志の統一がなされていたはずである。
元弘三年三月十一日、菊池勢は博多に到着して息浜に宿営した。翌十二日、探題館の奉行所に出頭した武時は、侍所・下広田新左衛門尉に、遅参したことを理由に到着を示す名簿に記入することを拒否される。
かねてから武時が、倒幕方の首謀者として活動していることを承知していて、あえて挑発したと考えられる。
宿営地に戻った武時は、鎮西探題襲撃の計画はすでに露見していると判断し、その夜作戦を練り直し、翌朝討ち入る手はずを固め、その夜は死出の別れの祝宴を開いたという。
翌十三日未明、東の空が微かに白みかける頃、菊池勢は博多の町の所々に火を放ち、探題に宣戦を告げた。それと共に、かねてより密約を結んでいた少弐・大友の両陣営に使者を立て、決起を要請した。
他の資料によると、全体の決起は十四日であったとも考えられるが、博多の東部の地に宿営していた少弐貞経は、菊池の使者二人を斬り捨て、大友貞宗も同様に斬ろうとしたが、こちらは逃げ帰ったらしい。
両者ともに、約定より早い決起に危うさを感じたための行動かもしれないが、むしろ、この両者により菊池武時を中心とした鎮西探題襲撃計画は、幕府方に漏らされていた可能性が高いように思われる。
この頃、伯耆で決起した後醍醐天皇のもとには、期待ほどの軍勢は集まっておらず、吉野にあった大塔宮護良親王は行方不明の状態にあり、楠木正成の守る赤坂城は幕府の大軍に攻め落とされたとの噂も伝わっていた。
少弐貞経や大友貞宗の行動は、日和見とも裏切りともいえるが、中央の激しく動く権力闘争の余波を受けながら一族を守ってゆかねばならない豪族当主としては、決起の時期は未だ熟さずと判断したことを単純に非難することは出来ない。
友軍と頼んでいた豪族たちに見限られた菊池一族一門は、錦旗を先頭に掲げ「我らは宣旨の使いである。我らは朝敵を征伐するのだ。人々早く来て、軍勢に加われ」と叫びながら進軍した。
総勢決死の覚悟で探題館に向かったが、放火により延焼中のため道がふさがれていて迂回せざるを得なくなった。さらには放火に気付いた探題館からは、武蔵四郎・武田八郎の率いる軍勢に行く手を阻まれた。
ようやく探題館に突入した頃には、幕府方も応戦体制を整えていて、過酷な戦いとなった。
武時と子息三郎頼隆は犬射の馬場で討ち取られてしまった。武時の弟二郎三郎入道覚勝は一軍を率いて館深くまで攻め込んだが、中庭で激戦の上七十四人ことごとくが壮絶な最期を遂げた。
勇猛果敢な武時に率いられた決死の菊池勢は、数時間後の戦いののち壊滅的な敗戦となった。
探題方の損害も莫大であったが、少弐・大友をはじめ集結していた豪族たちは探題館に駆けつけ、戦いは一方的なものとなり、菊池一族一門による無謀な討ち入りとなった。
武時の嫡男二郎武重は、阿蘇大宮司惟直と共に戦場を脱し、辛くも落ち延びることが出来た。他にも生き残った者たちは、肥後をさして落ちていった。
しかし、探題方による追撃は厳しく、周囲の豪族の殆どが幕府方となった中で、次々と討ち取られていった。菊池氏の本拠地菊池城も攻撃され、阿蘇にもその一帯が差し向けられた。
ここに、九州における天皇方の中心勢力の一つであった菊池氏は壊滅状態となった。
菊池武時の蜂起は、幕府方の一方的な勝利で終わったが、鎮西探題の受けたダメージも小さくなかった。
勝利したとはいえ、探題方の有する戦力はごく限られたものであることが露呈したのである。さらに、中央の状況も逐一豪族たちは把握していた。
四月二十九日には足利尊氏が反北条の兵をあげ、五月七日には京都における幕府の拠点六波羅を陥落させたのである。千早城攻撃の幕府軍が奈良に撤退したとか、五月二十一日には新田義貞が鎌倉を陥れたという情報が九州に到達したのがいつなのか明らかではないが、九州の豪族たちは次第に倒幕方に変わって行った。
少弐貞経はその中心人物として動き、大友氏、島津氏と共謀して、五月二十五日には、鎮西探題北条英時を襲い自殺させたのである。
菊池武時討死から、僅か七十日後のことであった。
太平記の巻第十一には、武時討死の状況を詳しく記している。その最後の部分を引用しておく。
『 哀しいかな、昨日は少弐・大伴、英時に随ひて菊池を誅つ。今日は妙恵・愚鑑(少弐・大伴の法名)、心を翻して英時を誅す。二君に仕へざるまでの事こそかたからめ、不得心の至極なり。されば、「行路のかたきこと、山にしもあらず、水にしもあらず、ただ人の情の反復の間にあり」と、白居易が書かれたりし筆の跡、思ひ知りける人は、皆そぞろに袖をぞぬらしける。 』
* * *
菊池氏は肥後の名門豪族である。
伝えられている系図などによれば、寛仁三年(1019)の刀伊の入寇(大陸から筑前・壱岐・対馬に侵攻)の戦役で功のあった太宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原則隆が肥後国に下向して土着、藤原(北家)氏を称したのを初代としている。(異説もある)
この藤原隆家という人物は、中の関白と呼ばれた藤原道隆の子であるが、『枕草子』という名著を残した清少納言が仕えた中宮定子の弟でもある。
中の関白家は、道隆の死後、急速に家運を落としている。道隆の弟である藤原道長が台頭し、藤原氏の全盛を築いて行く過程で政争に敗れたためである。
隆家も、本来ならば中央で大納言あるいは大臣へと昇る可能性があったが、地方の長官に左遷されたのである。
しかし、考え方によれば、そのような経緯があったればこそ、名門菊池氏が誕生したのだともいえる。
武時は、菊池氏第十二代目の当主である。生年は確定されていないが、享年を四十二歳と仮定すると、正応五年(1292)の生まれとなる。
父の隆盛が、第十代当主である祖父武房より先に亡くなったため、兄の時隆が祖父の養嫡子となって第十一代当主となったが、この家督相続に不満を持った叔父の武経と争いとなり、結局両者共に滅びる結果となり、武時が家督を引き継ぐことになったのである。
このような経緯からも分かるように、この頃には、菊池氏の一門一族は肥後国を中心にかなりの勢力を有していた。
同時に、九州の諸豪族たちは、中央の政権の動きに敏感に反応しながら、一族の安泰と勢力拡大に奔走していた。武時が、後醍醐天皇の蜂起にいち早く反応し、王朝方、あるいは南朝方として行動していたかに見えるが、実際は一族の繁栄が目的であって、鎮西探題を拠点とする北条氏の圧力と対抗しようとした動きであったと思われる。
しかし、結果として、武時の探題館襲撃は、九州における倒幕活動の先駆けとなったことは確かである。
ただ、惜しむらくは、少々決起が早すぎたかもしれない。
武時討死からひと月余り後には、足利尊氏が反北条の兵をあげ、五月七日には六波羅を陥落させたのである。これらの都の動向は、現代の我々が想像するより遥かに早くに九州に伝えられていたようである。
太平記では厳しく非難されているが、一族を守ることに懸命な少弐氏や大友氏は、敏感に中央の流れをつかみ、反北条に立場を変えて、五月二十五日には、北条英時を亡ぼしている。
鎌倉が新田義貞により陥落させられたのは、それより前の五月二十一日のことである。
このように、早すぎた菊池武時の決起は一見犬死のように見える。しかし、その果敢な決起を評価する人物がいたのである。
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、功臣や天皇方として働いた豪族たちへの恩賞が与えられた。
九州においては、うまく立ち回った有力豪族である少弐・大友・島津には多大な恩賞が与えられた。
そして、そうした動きの中で、楠木正成が述べたという意見が残されている。
『 元弘の忠烈は、労功の輩、これ多しと雖も、いずれも身命を存する者なり。ひとり勅諚によりて一命をおとせる者は武時入道なり、忠厚もっとも第一たるか。 』
これにより、武時の嫡子武重は、肥後守に任ぜられたのである。
「英雄は英雄を知る」、そんな気がして何か嬉しいのである。
( 完 )
鎮西探題攻防
元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出して、伯耆国の名和長年に奉じられて四方の軍勢の招集にかかった。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王は楠木正成などと共に苦戦を強いられながら吉野や河内を中心に倒幕活動を続けていて、天皇の隠岐島脱出は反北条勢力に勢いづけることとなった。
大塔宮は、諸国の社寺や豪族たちに令旨を発し決起を促していた。これに応じて、播磨の赤松氏、四国伊予の土居氏・得能氏らが挙兵した。
そして九州にも、「鎮西探題北条英時、および一族の桜田師頼を討て」という元弘三年二月七日付の大塔宮の令旨が到着した。鎌倉御家人も含む有力豪族に広く発せられたもので、菊池武時もその一人であったと考えられる。
これに対して、倒幕方の動きを察知した北条英時は、反乱を未然に防ぐため、九州の地頭御家人を博多に招集した。
菊池武時は、この召集に応じて一族一門二百五十騎を率いて出立、その中には幼い孫まで加わっており、再び故郷菊池の地を踏まぬ覚悟の出陣に見えた。
鎮西探題は、文永の役・弘安の役という蒙古軍の来襲を受け、九州の防備並びに統括の必要性から博多に合議訴訟機関を設置したことに始まる。当初は、鎌倉から派遣された三人の使者と、九州の有力守護である少弐・大友・島津の三氏による合議機関を作り、それがやがて正応六年(1293)、九州における武家統率の最高機関である鎮西探題となった。
これにより、鎌倉政権、つまり北条氏による九州での権限・権益は強まる一方で、豪族たちの不満は募っていた。
武時に率いられた菊池一門の決起は、鎮西探題北条英時からの召集に応じた形であるが、大塔宮の令旨に応えて幕府の九州における拠点である鎮西探題を攻撃する決意を抱いていた。
当然のことながら、少弐・大友ら有力豪族とは意志の統一がなされていたはずである。
元弘三年三月十一日、菊池勢は博多に到着して息浜に宿営した。翌十二日、探題館の奉行所に出頭した武時は、侍所・下広田新左衛門尉に、遅参したことを理由に到着を示す名簿に記入することを拒否される。
かねてから武時が、倒幕方の首謀者として活動していることを承知していて、あえて挑発したと考えられる。
宿営地に戻った武時は、鎮西探題襲撃の計画はすでに露見していると判断し、その夜作戦を練り直し、翌朝討ち入る手はずを固め、その夜は死出の別れの祝宴を開いたという。
翌十三日未明、東の空が微かに白みかける頃、菊池勢は博多の町の所々に火を放ち、探題に宣戦を告げた。それと共に、かねてより密約を結んでいた少弐・大友の両陣営に使者を立て、決起を要請した。
他の資料によると、全体の決起は十四日であったとも考えられるが、博多の東部の地に宿営していた少弐貞経は、菊池の使者二人を斬り捨て、大友貞宗も同様に斬ろうとしたが、こちらは逃げ帰ったらしい。
両者ともに、約定より早い決起に危うさを感じたための行動かもしれないが、むしろ、この両者により菊池武時を中心とした鎮西探題襲撃計画は、幕府方に漏らされていた可能性が高いように思われる。
この頃、伯耆で決起した後醍醐天皇のもとには、期待ほどの軍勢は集まっておらず、吉野にあった大塔宮護良親王は行方不明の状態にあり、楠木正成の守る赤坂城は幕府の大軍に攻め落とされたとの噂も伝わっていた。
少弐貞経や大友貞宗の行動は、日和見とも裏切りともいえるが、中央の激しく動く権力闘争の余波を受けながら一族を守ってゆかねばならない豪族当主としては、決起の時期は未だ熟さずと判断したことを単純に非難することは出来ない。
友軍と頼んでいた豪族たちに見限られた菊池一族一門は、錦旗を先頭に掲げ「我らは宣旨の使いである。我らは朝敵を征伐するのだ。人々早く来て、軍勢に加われ」と叫びながら進軍した。
総勢決死の覚悟で探題館に向かったが、放火により延焼中のため道がふさがれていて迂回せざるを得なくなった。さらには放火に気付いた探題館からは、武蔵四郎・武田八郎の率いる軍勢に行く手を阻まれた。
ようやく探題館に突入した頃には、幕府方も応戦体制を整えていて、過酷な戦いとなった。
武時と子息三郎頼隆は犬射の馬場で討ち取られてしまった。武時の弟二郎三郎入道覚勝は一軍を率いて館深くまで攻め込んだが、中庭で激戦の上七十四人ことごとくが壮絶な最期を遂げた。
勇猛果敢な武時に率いられた決死の菊池勢は、数時間後の戦いののち壊滅的な敗戦となった。
探題方の損害も莫大であったが、少弐・大友をはじめ集結していた豪族たちは探題館に駆けつけ、戦いは一方的なものとなり、菊池一族一門による無謀な討ち入りとなった。
武時の嫡男二郎武重は、阿蘇大宮司惟直と共に戦場を脱し、辛くも落ち延びることが出来た。他にも生き残った者たちは、肥後をさして落ちていった。
しかし、探題方による追撃は厳しく、周囲の豪族の殆どが幕府方となった中で、次々と討ち取られていった。菊池氏の本拠地菊池城も攻撃され、阿蘇にもその一帯が差し向けられた。
ここに、九州における天皇方の中心勢力の一つであった菊池氏は壊滅状態となった。
菊池武時の蜂起は、幕府方の一方的な勝利で終わったが、鎮西探題の受けたダメージも小さくなかった。
勝利したとはいえ、探題方の有する戦力はごく限られたものであることが露呈したのである。さらに、中央の状況も逐一豪族たちは把握していた。
四月二十九日には足利尊氏が反北条の兵をあげ、五月七日には京都における幕府の拠点六波羅を陥落させたのである。千早城攻撃の幕府軍が奈良に撤退したとか、五月二十一日には新田義貞が鎌倉を陥れたという情報が九州に到達したのがいつなのか明らかではないが、九州の豪族たちは次第に倒幕方に変わって行った。
少弐貞経はその中心人物として動き、大友氏、島津氏と共謀して、五月二十五日には、鎮西探題北条英時を襲い自殺させたのである。
菊池武時討死から、僅か七十日後のことであった。
太平記の巻第十一には、武時討死の状況を詳しく記している。その最後の部分を引用しておく。
『 哀しいかな、昨日は少弐・大伴、英時に随ひて菊池を誅つ。今日は妙恵・愚鑑(少弐・大伴の法名)、心を翻して英時を誅す。二君に仕へざるまでの事こそかたからめ、不得心の至極なり。されば、「行路のかたきこと、山にしもあらず、水にしもあらず、ただ人の情の反復の間にあり」と、白居易が書かれたりし筆の跡、思ひ知りける人は、皆そぞろに袖をぞぬらしける。 』
* * *
菊池氏は肥後の名門豪族である。
伝えられている系図などによれば、寛仁三年(1019)の刀伊の入寇(大陸から筑前・壱岐・対馬に侵攻)の戦役で功のあった太宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原則隆が肥後国に下向して土着、藤原(北家)氏を称したのを初代としている。(異説もある)
この藤原隆家という人物は、中の関白と呼ばれた藤原道隆の子であるが、『枕草子』という名著を残した清少納言が仕えた中宮定子の弟でもある。
中の関白家は、道隆の死後、急速に家運を落としている。道隆の弟である藤原道長が台頭し、藤原氏の全盛を築いて行く過程で政争に敗れたためである。
隆家も、本来ならば中央で大納言あるいは大臣へと昇る可能性があったが、地方の長官に左遷されたのである。
しかし、考え方によれば、そのような経緯があったればこそ、名門菊池氏が誕生したのだともいえる。
武時は、菊池氏第十二代目の当主である。生年は確定されていないが、享年を四十二歳と仮定すると、正応五年(1292)の生まれとなる。
父の隆盛が、第十代当主である祖父武房より先に亡くなったため、兄の時隆が祖父の養嫡子となって第十一代当主となったが、この家督相続に不満を持った叔父の武経と争いとなり、結局両者共に滅びる結果となり、武時が家督を引き継ぐことになったのである。
このような経緯からも分かるように、この頃には、菊池氏の一門一族は肥後国を中心にかなりの勢力を有していた。
同時に、九州の諸豪族たちは、中央の政権の動きに敏感に反応しながら、一族の安泰と勢力拡大に奔走していた。武時が、後醍醐天皇の蜂起にいち早く反応し、王朝方、あるいは南朝方として行動していたかに見えるが、実際は一族の繁栄が目的であって、鎮西探題を拠点とする北条氏の圧力と対抗しようとした動きであったと思われる。
しかし、結果として、武時の探題館襲撃は、九州における倒幕活動の先駆けとなったことは確かである。
ただ、惜しむらくは、少々決起が早すぎたかもしれない。
武時討死からひと月余り後には、足利尊氏が反北条の兵をあげ、五月七日には六波羅を陥落させたのである。これらの都の動向は、現代の我々が想像するより遥かに早くに九州に伝えられていたようである。
太平記では厳しく非難されているが、一族を守ることに懸命な少弐氏や大友氏は、敏感に中央の流れをつかみ、反北条に立場を変えて、五月二十五日には、北条英時を亡ぼしている。
鎌倉が新田義貞により陥落させられたのは、それより前の五月二十一日のことである。
このように、早すぎた菊池武時の決起は一見犬死のように見える。しかし、その果敢な決起を評価する人物がいたのである。
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、功臣や天皇方として働いた豪族たちへの恩賞が与えられた。
九州においては、うまく立ち回った有力豪族である少弐・大友・島津には多大な恩賞が与えられた。
そして、そうした動きの中で、楠木正成が述べたという意見が残されている。
『 元弘の忠烈は、労功の輩、これ多しと雖も、いずれも身命を存する者なり。ひとり勅諚によりて一命をおとせる者は武時入道なり、忠厚もっとも第一たるか。 』
これにより、武時の嫡子武重は、肥後守に任ぜられたのである。
「英雄は英雄を知る」、そんな気がして何か嬉しいのである。
( 完 )