雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語  第九部

2013-08-17 10:52:20 | 小さな小さな物語 第九部
        小さな小さな物語  第九部

   
        No.481 から No.540 までを収録しています
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小さな小さな物語  目次

2013-08-17 10:51:27 | 小さな小さな物語 第九部
       小さな小さな物語 目次 ( No.481 ~ 500 )

      No.481  景気回復の正念場
        482  確かな息吹
        483  トキはトキ
        484  スポーツを楽しむ
        485  宇宙からの使者


      No.486  壮大なお話
        487 「逃げる勇気」を
        488  八十の手習い
        489  絶望の中でも
        490  二十四時間を生きる


      No.491  バンスターズ彗星
        492  時は流れて
        493  雁供養
        494  こうもりは鳥か
        495  プラシーボ効果   
  


      No.496  廻り廻って
        497  一票は一票
        498  国の骨格
        499  地震予知
        500  大切なもの
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景気回復の正念場 ・ 小さな小さな物語 ( 481 )

2013-08-17 10:50:07 | 小さな小さな物語 第九部
前政権が解散を決意してから、わが国の経済環境は文字通り様変わりの変化を見せています。
新政権への期待の大きさに、少々怖くなるような変わりようですが、同時に、遅まきながらあの時点で解散を決意してくれた前政権に感謝したいと思います。

ただ、何が変化したかと考えてみますと、対ドル相場がほんの10円ばかり円安方向に動いたことと、それによる株式市場の上昇で上場株式の総価格は大分増加しましたが、実は、実体経済で特別な変化が実現しているわけではありません。
それにしても、「景気は気から」とかいうそうですが、今回ばかりはこの言葉の凄さを見せつけられた気持ちです。
さあ、そこで、この、物語にしても信じられないような二カ月ばかりの間の変化を、実体面で良い方向で実現していくことが大切です。そのためには、この半年ばかりが正念場だと思うのです。

今回の変化の基となったものを見てみますと、円安と公共事業を中心とした財政支出への期待が主なものです。
「三本の矢」などと、実に古典的なたとえを示してくれていますが、たとえは古典的であろうとなかろうと、実行・実現されるかどうかが重要なのです。規制緩和や成長分野の育成などということは、これまでも聞き飽きるほど聞かされたテーマです。本気で実行するかどうかなのです。
そして、これも予想したことではありますが、「円安」の副作用について唱える人たちが頑張り始めています。当たり前のことで、円安になれば輸入価格が上昇することなど誰にでも分かることです。その面だけを強調していては、デフレ脱却など不可能です。もっともっと円安方向に誘導して、国内の雇用を確保することが重要なのです。
公共事業を中心とした財政出動に対しても反対意見がぼつぼつ聞こえ始めました。「公共事業性悪説」のような意見を述べる人もたまに見ますが、あまりにも単純な発想なので無視するとしましても、財政規律を心配する考えを無視することは出来ません。しかし、わが国の財政は、いくら緊縮財政を実施しても膨大な国の借金を減らすことなどできません。何としても、税収を増やすことが大切なのです。出来ることなら、この時期の消費税の引き上げなどという愚策以外の方法で。

政府発表によれば、補正並びに13年度予算が予定通り実行された場合、年度末の国債発行残高は、750兆円になるそうです。
同年度の税収見込みが43兆円ほどですから、この分の10%を返済に充てていっても、180年近くかかる計算になります。つまり、もはやわが国の財政は、学校で習ったような知識では、完全に返済することなどできない状態になっているのです。
では、どうすればよいのか。といっても、そんな方法が簡単に見つかるわけはないはずです。ただ、あえて挙げるとすれば、「税収と税外収入を飛躍的に増やす」か「借金など返す必要がないという有無を言わせぬ理論を確立させること」の二つのように思うのです。もっとも、千倍程度のインフレにするというのもあるかもしれませんがこれは論外とします。
いずれにしても、今私たちは、経済再生の正念場にあります。優れた技術を、優れたシステムを、そして強い「円」をどんどん売っていくことが必要とされています。

( 2013.02.09 )
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確かな息吹 ・ 小さな小さな物語 ( 482 )

2013-08-17 10:48:23 | 小さな小さな物語 第九部
わが家の庭は、可哀そうなほどに放ったかされています。
菜園と呼ぶには少々おこがましいのですが、野菜を植えるために一画を仕切っています。今の状態を申し上げますと、青ネギが少々、ワケギはすっかり枯れてしまっているのですが、球根は生きているはずなのでぼつぼつ芽吹いてくるのではないかと思っていますが、さて、どうでしょうか。
先日、一畝をつぶしてブルーベリーを三本植えました。さんざん石灰を加えてきた畑なので、その畝だけはピートモスを大分加えたのですが、さて、ブルーベリーが喜んでくれる程度の酸性度になったのでしょうか。
その他の畝には、カブ、シュンギク、ホウレンソウ、コマツナ、フユナ(?)などが昨年から放ったらかしにされています。大きくもなりませんが、雪や霜に襲われても枯れもしないで健在です。さすがに青虫などはいませんから、それなりに元気です。

その点、通路にあたっている部分や、花壇の周囲ばかりでなく本来きれいな花が咲いているはずの場所までも、雑草がしっかりと伸びてきています。さすがだと思います。そして、もう一つ、ノースポールの苗が、通路を中心に数えきれないほどの数が大分大きくなってきていて、小さな花をつけ始めています。二年ほど前から、植木鉢から飛んだ種から芽を出すようになったのですが、このまま自然に任せているとどうなるのか、試してみようと思っています。

花らしい花がほとんどない花壇ですが、もっともわが家の花壇は私がそう呼んでいるだけで、きれいに整理されているものではなく、この一画にはこの花を、この一画にはこの木をといった具合で、よく言えば自然体、よく言ってくれない場合は乱雑、といった状態です。
その花壇ですが、至る所から球根が芽を出しています。スイセンは早くから伸びていますが、どれが何だかよく分からないままに、緑色の芽が雑草の合い間からしっかりと自分の場所を確保しているようです。雑草も逞しいですが、そうそう簡単には負けないぞと言わんばかりで、何だか嬉しくなってしまいます。

それにしても、今年は当地でも雪や霜柱が多く、結構厳しい冬が続いているのですが、球根たちは何を頼りに芽吹いているのでしょうか。
いくら寒くても、地中の中には春を教える合図があるのでしょうか。あるいは、延々と受け継いできた体内時計のようなものの指示に従っているのでしょうか。よく分からないのですが、少なくとも、めったに世話もしない私のためでないことだけは確かなようです。
いつか立春も過ぎて、寒い寒いと言いながらも、私たちの周囲には春の息吹が確かな足取りで近付いてきているようです。
あれも気に入らないし、これも面白くないと思うことも多いのですが、球根の艶やかな新芽を見つめながら深呼吸でもして、前を向いて行くことにします。

( 2013.02.12 )
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トキはトキ ・ 小さな小さな物語 ( 483 )

2013-08-17 10:46:53 | 小さな小さな物語 第九部
国の特別天然記念物である「トキ」について、分類の変更があったことが明らかになりました。
つまり、トキを含むトキ科の分類について、これまでの「コウノトリ目」から「ペリカン目」に変更になったことが日本鳥学会から発表されました。近年のDNA解析の向上の結果のようです。
まあ、端的に言えば、トキはコウノトリの仲間だと思っていたのが、実はペリカンの仲間だったということでしょう。

この結果、トキの正しい所属先は次のようになりました。
『動物界・・脊索動物門・・脊椎動物亜門・・鳥綱・・ペリカン目・・トキ科・・トキ属』のただ一種の鳥ということになります。
さあ、それがどうしたと言われますと、話は行き止ってしまうのですが、確かにペリカンの仲間というよりコウノトリに近い感じがすることは確かです。これが、「トキはコウノトリの仲間だと思っていたが、実はライオンの仲間だった」というのであれば、相当驚くのですがね。
因みにライオンの所属先はと調べてみますと、『動物界・・脊索動物門・・脊椎動物亜門・・哺乳綱・・ネコ目・・ネコ科・・ヒョウ亜科・・ヒョウ属』のライオンという種だということになります。トラも同じヒョウ属のトラという種になります。
ライオンとトラは極めて近い種属ということになりますが、当然ネコもそうだと思っていたのですが、意外に分類上は離れているようです。
ネコは『動物界・・脊索動物門・・脊椎動物亜門・・哺乳綱・・ネコ目・・ネコ亜目・・ネコ科・・ネコ属』の中のヤマネコ種のイエネコ亜種ということになります。さらに、もっと詳しく言えば、それぞれの項目の間に「上綱・亜綱・上目」という区分けもされているのです。
何がどう違うのか、ですか? 書いている私が「ジュゲムジュゲム・・」を唱えている感じになっています。

地球上に、どのようにして命が誕生したのか、そして、最初の命は一つだったのか、それとも多くの命があちらこちらで誕生したのか、そして、それらがどのような経過を辿り、どのような進化や絶滅を繰り返しながら、現在の地球上にその種を保っているのか、そのどの一つをとっても壮大なドラマが隠されているのでしょう。
トキについても同様です。
かつては、東アジア一帯に広く分布していたのですが、二十世紀前半の頃から激減していったようです。人間による、開発という名の環境破壊がその原因であることは間違いないことでしょう。
わが国においても、二十世紀中頃にはいったん絶滅したと考えられていたようですが、その後わずかな数が発見され、捕獲して保護にあたりましたが、わが国の固有種は2003年についに絶滅してしまいました。
この間、中国から二羽を貰い受け人工繁殖に成功し、現在は野生化を目指す所まで来ているのです。
絶滅したわが国の固有種と、中国のトキとでは、「亜種」というほどの差はなく、環境の変化による差異程度の僅かなもののようです。

トキがペリカンの仲間だったというのも驚きと言えば驚きですが、私たちの身の回りにも、「まさかあの人が・・」とか「あんな人とは知らなかった・・」といった声を聞くことが少なくありません。
見かけだけで人を判断することはとても難しいことであるのは、遠い昔から教えられていることなのですが、世の中には、悪い人も立派な顔貌で生きているものですから困ったものです。
さすがに、「あの人はペリカンだったのか」という話は聞いたことがありませんが、「サギだった」という話は珍しくもありません。
一人一人をDNA鑑定して、あの人は『動物界・・脊索動物門・・何某・・』に属しているから大丈夫だというわけにもいきません。お互いに十分注意をして、サギの餌にならないように注意したいものですねぇ。

( 2013.02.15 )
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スポーツを楽しむ ・ 小さな小さな物語 ( 484 )

2013-08-17 10:44:58 | 小さな小さな物語 第九部
スポーツに関わる話題が豊富です。
例年この時期は、プロ野球のキャンプ便りがスポーツ紙やテレビのスポーツ番組の主役になるのですが、今年は少し様子が違うようです。それも、社会面や、政治問題としてまで拡大しているのです。
わが国では、体罰問題が大きな話題になっていますが、世界的に見れば、オリンピックの競技種目の問題や、有名選手の事件らしい報道も伝わってきています。

それぞれの問題は、それぞれに理由があり、然るべき対応がなされていくと思うのですが、わが国について言えば、スポーツの位置付けについて国民全体で考え直す必要があるように思うのです。
大阪の某高校のスポーツ顧問の教師や柔道の代表監督に端を発して、あちらこちらから似たような事案が報告されています。それでもまだ、氷山の一角に過ぎないことでしょう。
この二件の指導者について言えば、こんなのを体罰だとか愛の鞭などといった言葉で表現するのはもってのほかです。他にも刑事事件になった指導者もいますが、そのいずれも有罪かどうかはともかく、完全な犯罪行為です。

スポーツというものは、ヨーロッパなどでは楽しむものとしてスタートしたそうです。それに対してわが国では、教育の一環としてスタートしたようなので、世界基準でいえば、歪んだスポーツの在り方や指導の在り方がまかり通っているようなのです。この機会に、徹底した実態調査をし、いくら力が強くても、いくら早く走れるとしても、いくらボールをうまく操れるとしても、人格に欠けた人物をスポーツの指導者にさせてはなりません。いわんや、学校教育の場でそのような人物がクラブを指導していることを考えれば、怖ろしくなってしまいます。
少なくとも、未成年ばかりの高校以下のクラブ活動からは、そのような指導者を早急に追放しなくてはいけません。そのため指導者が少なくなり、クラブ活動に支障があるのなら、クラブ活動なんてやめてしまえばよろしい。これまで、ひどい指導者のもとで運営されたクラブが解放されるだけで、青少年の教育上、相当のプラスになるはずです。

この際私たちは、スポーツを見直す必要があるのではないのでしょうか。
甲子園の高校野球に代表されるように、若者の懸命な姿は多くの人に感動を与えてくれます。しかし、その陰に、もしトラやライオンでも調教するような指導をしている学校が一校でもあるとすれば、全く興ざめになってしまいます。
大体、私たちはスポーツに優れた人をあまりにも神聖視しているように思うのです。
優れたスポーツ選手が称えられることに何の異論もありませんが、スポーツは、金メダルを手にしたり巨万の富を得ている人たちだけにあるものではないのです。
年齢や運動能力などに限定されないあらゆる層の誰でもが、もっともっと気楽に様々なスポーツを楽しめるようにすることこそが、金メダルの数を数えるより遥かに重要なはずです。
今こそが、「スポーツは楽しいものである」という原点に戻る絶好のチャンスだと思うのです。

( 2013.02.18 )
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宇宙からの使者 ・ 小さな小さな物語 ( 485 )

2013-08-17 10:43:48 | 小さな小さな物語 第九部
「宇宙からの使者」と呼ぶには少々荒っぽい訪問ですが、ロシアに巨大な隕石が落下しました。
落下に至る状況が、数多く映写されており、被害を受けた方々にはまことに申し訳ないのですが、実に貴重な映像となったはずです。
本体らしいものは「聖なる湖」とも呼ばれている結氷した湖に落ちたようで、直径8m程の穴があいているそうです。その本体はまだ確認されていません。
はるばる宇宙を飛来してきて「聖なる湖」に飛び込むなどは、出来過ぎた程の鮮やかさですが、周辺の人々には千人を超える怪我人が出ており、被害総額は三十億円を超えるようです。

地球をかすめるようにして飛び去っていった小惑星もありましたが、今回のはその破片なのではないかなどと思ったのですが、全く違う方向から飛来したもので、たまたま重なったものだそうです。
しかし、たまたま重なったと言いますが、それほど簡単に重なる程地球にやってくる「宇宙からの使者」は多いのかと思うのですが、それが結構な数のようなのです。
地球に飛び込んでくる小惑星と言ってよいのかどうか分かりませんが、塵や岩石などの大半は大気圏に突入した段階で燃え尽きてしまいます。私たちが流れ星と呼んで願いを懸けている物の大半はその類だと思うのですが、大気圏を通り抜けて地上までやってきたものは隕石と呼ばれますが、その数だけでも少なくないのです。
新聞の記事によりますと、年間の隕石の数は、重さ約10kgのもので800個、約1kgのもので4100個、約100gの小石大だと2万個にもなるそうです。

地球にやってくる「宇宙からの使者」たちは、小惑星に限らず、もっと遥かな宇宙空間からやってくるものもあり彗星などもその一つですが、では、小惑星というものはどのくらいあるかと言いますと、これまた相当の数なのです。
小惑星と呼ばれるものの多くは、火星と木星の間にあり、これを小惑星帯と呼ばれるそうです。
その数は、番号が付けられているものだけで約33万個、その他確認されているものを加えると50万個を遥かに超え、未確認のものを加えれば、この小惑星帯だけで100万個は超えそうです。
つまり、太陽系にある惑星は、「水・金・地・火・木・・・」なんてものだけではないのです。大根は小さくとも小根とは言わないのですから、いくら芥子粒のようなものでも惑星は惑星です。私たちの仲間と呼ぶべき天体は100万個ほどはあるということなのです。

このニュースを見た時、ある一つのことを連想しました。すると、予想に違わない発言をしてくれるコメンテーターの方が複数いました。
「この隕石が原発に落ちていたらどうなっていたか」「隕石に対する安全対策はどうなのか」等々。
昔、この空が落ちてきたらどうなるのかと、心配で心配で仕方がなかった人がいたそうです。
心配するのは勝手ですし、私自身もこんな無責任なコラムを書いていますので大きなことは言えませんが、少なくともテレビなどでコメントする程の人は、少しは責任のある発言をして欲しいものです。こんな発言を認めていれば、今に全ての建築物には隕石に耐えられる仕様が必要だと言いだすかもしれませんよ。
6500万年前に落下した巨大隕石が、気候変動を引き起こし恐竜を絶滅に導いたともいわれています。地球や宇宙の歴史からいえば6500万年前など、つい昨日のようなものかもしれません。かといっても、その規模の隕石落下に備える必要があるとはとても思われないのです。
ただ、地球上には、年間三万個ほどもの隕石が落ちてきています。もしかすると、今までに一度も隕石に当たったことのない人は、とても幸運な人なのかもしれませんねぇ。

( 2013.02.21 )
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壮大なお話 ・ 小さな小さな物語 ( 486 )

2013-08-17 10:41:59 | 小さな小さな物語 第九部
今回も『県立大西はりま天文台からの便り』から引用させていただきました。
『 月のない夜に見ることができる天の川は、太陽のように自分で光を出している恒星が1000億個ほど集まっていると考えられています。このような恒星の大集団は銀河と呼ばれています。恒星の大きさに対する恒星同士の距離と比べると、銀河の大きさに対する銀河同士の距離の方が、はるかに近くにあります。このため、恒星同士が接近・衝突することはほとんどありませんが、銀河同士が接近している場所は、あちこちに見ることができます。
 ( 中略 )
さて、私たちの天の川にも、少し小さいですが近くにある銀河として、大小マゼラン銀河があります。また、秋に肉眼でも見ることができるアンドロメダ銀河は、現在天の川に近づいてきており、やがては衝突し、合体して、何十億年か先には、現在とは全く別の姿になるのではないかと考えられています。 』
 ( 以上は、西はりま天文台・副センター長 石田俊人氏の記事を使わせていただきました。 )

つい先日、ロシアに落下した隕石で大騒ぎしましたが、こちらは何とも壮大なお話です。
太陽のお陰で、何とか宇宙空間をさまようことなく一定の位置に留まっている私たちの地球ですが、小惑星とはいえ岩石の塊程度のものが飛び込んできただけでこの大騒ぎなのですが、いつものことながら、この天文台が毎日新聞に掲載している記事は、何とも壮大なお話ばかりです。今回のものも、1000億個もの恒星が集まっている銀河と銀河が衝突するというのですから、そりゃあ、少々の巨大隕石より激しいものなのでしょうね。

しかも、私たちの銀河系銀河にもアンドロメダ銀河が近づいてきているというのですよ。
アンドロメダ銀河などという言葉は、マンガかSFの世界のことだとばかり思っていたのですが、現に観測できる程度の距離にあるというのです。
隕石が原発に落ちることを心配されている方々にとっては、この銀河の接近も又心配の種になるのではないでしょうかねぇ。まさか、何とか進行方向を変える方法を研究せよ、などとは言わないと思うのですがねぇ。

アンドロメダ銀河が私たちの銀河に突入してくるのは、数十億年先だそうです。
大分先だと言えばその通りですが、地球誕生や宇宙の起源などの時間軸を考えれば、数十億年といってもそれほど長い時間ではなく、しかも、時間は、確実に止まることなく刻み続けるのですから、いつかは実現するわけです。
その壮大な衝突現場を見てみたいような気もしますし、隕石の落下よりはもう少しひどい状態も予想されるので見たくない気もします。
まあ、どちらにしても、多分私は死んでいるでしょうから、そう心配することもないのですが。

( 2013.02.24 )
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『逃げる勇気』を ・ 小さな小さな物語 ( 487 )

2013-08-17 10:40:15 | 小さな小さな物語 第九部
犯罪のない社会など望むべくもないと思うのですが、知恵や努力によって減少させることは可能だと思うのです。
その証拠として、国家によって犯罪に対する危険性に差がありますし、わが国内においても地域格差があることはデーターに示されています。
しかし、犯罪を減少させることは出来ても、完全に無くすことは不可能です。

ただ、犯罪といえば間違いなく犯罪なのですが、何とも悲しく、虚しくなってしまうような犯罪が、このところ数多く報道されています。
体罰、いじめ、パワハラ、セクハラ、ストーカー、家庭内暴力等々、犯罪というにはあまりにも人間臭く、ニュースとして接するだけでも切なくなってしまいます。そして、この種の犯罪は、一般的な犯罪と違って、加害者も被害者も傷を負い、命を失う恐れがあるのです。

上に挙げたいずれの犯罪についても、それほど勉強しているわけではありませんので、あまり不用意な発言は控えるべきだと思うのですが、ただ、その中の幾つかを防げるのではないかと思われる『手段』があります。
それは、『逃げる勇気』を教えていくことだと思うのです。
『逃げる』という言葉は、ややもすると負けを連想させます。
「三十六計逃げるに如かず」という言葉がありますが、「負けるが勝ち」とほぼ同意語に使われます。どちらの言葉も意味としては決して弱者の行動を指しているわけではなく、むしろ知恵者の行動として使われるものです。それでも、「逃げる=負ける」という連想が働きがちで、「弱者の論理」、すなわち「負け惜しみ」として受け取られがちです。

しかし、絶対にそんなはずはありません。
『逃げる』には、とてつもなく大きな勇気が必要なのです。そのことを、私たちは幼い時から子供たちに教えていかなくてはなりません。
子供たちが、指導や養育の能力に欠ける人たちのために、体罰にあい、いじめにあい、虐待を受けています。保護者や指導者を教育することが先決ですが、その教育の成果には時間がかかります。そのためにも、子供はもちろん大人にも、『逃げる勇気』をしっかりと根付かせることが必要です。
「あの時、逃げ出していたら」「あの時、誰かに泣きついていたら」「あの時、子供を育てるのが無理だと訴えていたら」「あの時、学校など行く必要がないことを知っていたら」等々、『逃げだす勇気』を持っていたら、最悪の事態に至らなかったかもしれない事件は数多くあります。事件として表面化しないものは数え切れないほどの数になることでしょう。
私たちは、大きな声をあげて、『逃げる勇気』の大切さを多くの人に知ってもらいましょう。
それと同時に、『逃げる勇気』を素晴らしい行動として定着させるためには、「逃げ込める先」が広くて暖かい門を開けていることが絶対条件なのです。
「逃げ込める先」についてはまた意見を述べさせていただきますが、とりあえず、一人でも多くの人が、周囲の人たちに『逃げ出す』ためにはとても勇気がいるけれど、『逃げる勇気』はとても大切な知恵であることを伝えて欲しいと願っているのです。

( 2013.02.27 )
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八十の手習い ・ 小さな小さな物語 ( 488 )

2013-08-17 10:38:26 | 小さな小さな物語 第九部
ある本で、「八十の手習い」という言葉を見つけました。
いわゆる「ことわざ」の類の言葉ですが、実は、私はこの言葉知らなかったのです。
「六十の手習い」という言い方もありますが、私はこれが正しいもので、例えば「四十の手習い」などといったようにいろいろに応用されているのだと考えていました。その中にも、「八十の手習い」というものは、私の思考の中にはなかったのです。

例によって、広辞苑のお世話になりました。
「八十の手習い」については、「年老いてから字を習うこと。晩学のたとえ。六十の手習い」と説明されています。
「六十の手習い」の項目には、「六十歳になって初めて習字を始める意で、晩学のたとえ」とあります。
この二つを読み比べてみますと、「六十の手習い」の方が本命のようにも思えるのですが、広辞苑には、そのことについては触れておりません。

私がたまたま見かけた本には、「八十の手習い」の方が本家のような書き方をしていました。まあ、向きになって詮索する程の事でもないのですが、「八十の手習い」という言葉は江戸時代には使われていたそうです。
長寿社会といわれる現代ですが、男性の平均寿命は八十歳に僅かに届きません。女性の方はゆうゆう超えていますので、「八十の手習い」という言葉は女性に意味のある言葉でしょうが、男性の場合はそこに辿り着くまでが大変です。
しかも、江戸時代といえば、人生五十年といった時代だったと思うのです。おそらく平均寿命は五十歳に達していないと思うのですが、乳幼児や若くして亡くなる人が多かったためもあり、長命な人も結構いたのかも知れません。
それにしても、「八十の手習い」という言葉を残した江戸時代の人々は凄いと思います。

さて、現代に生きる私たち、「八十の手習い」を実践するだけの心意気はございますでしょうか。
「人間死ぬまで勉強だ」などといった殊勝な言葉も聞きますが、実際に実行するとなれば、なかなかそうもいきません。
私は図書館を利用させてもらうことが多いのですが、時々痛切に感じることがあります。それは、歴史とか地理とかといった知識の大半は十代の頃に身に付けたものが主流で、いまだにその知識をベースとしたものから越えることがなかなかできないということです。図書館で選ぶ書籍も、何かを調べる場合は別ですが、ほとんどが自分が持っている知識の範囲内のもので、これではとても「手習い」にはならないと思うのです。
江戸時代の人々が残した「八十の手習い」を現代に置き換えれば、「百歳の手習い」ぐらいに相当するのではないでしょうか。
そうだとすれば、「『手習い』を始めるのはまだまだ先で良いので、今はもっとのんびりと行きますか」とも思うのですが、この考え、あまり良くないのでしょうね。

( 2013.03.02 )
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