雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  山深き宮廷で

2013-08-18 08:00:32 | 運命紀行
          運命紀行
               山深き宮廷で

足利尊氏に追われた後醍醐天皇が、山深い吉野に朝廷を開いたのは建武三年(1336)のことであった。
尊氏に擁立される形で践祚を受けた光明天皇に対抗したもので、これにより朝廷は分裂、南北朝の始まりとなる。
南朝と呼ばれることになる吉野朝廷は、都から遠く離れた山奥の地で、紆余曲折を経ながらも五十余年に渡って朝廷を護り抜いたのである。
今回の主人公は、吉野朝廷に生きた一人の女房である。

女房の名前は、伊賀局という。
まず、伝えられている逸話を紹介しよう。

伊賀局は、後醍醐天皇の寵妃・阿野廉子に仕える女房であった。
廉子は天皇の寵妃であったが、同時に並の人物ではなかった。その評価は大きく分かれるとしても、南朝政権に大きな影響力を示した女性である。
後醍醐天皇が崩御した後も、僅か十二歳で後を継いだわが子の後村上天皇に対しても後見役ともいえる立場にあった。

正平二年(1347)六月というから、後村上の代になって八年ばかり過ぎた頃のことである。
その日は、六月十日の暑い夜であった。
伊賀局は一人で庭に出ていた。大きな松の枝が垂れていて、その間から月が煌々と輝いていた。
伊賀局は思わず、
『 涼しさを松吹く風にわすられて 袂(タモト)にやどす夜半の月影 』
と、即興の歌を口すさんだ。
すると、誰もいないと思っていた松の梢の方から、
『 心静かであれば 身も又涼し 』
という古い歌の下の句を言う者がいた。

見上げてみると、鬼の形をした化け物が翼を広げて、伊賀局の方を見下していた。
「あなたはいったい何者か。名を名乗りなさい」
と言うと、その化け物は、
「私は、藤原基遠でございます。廉子さまのために命を捨てて働いた者ですが、いまだ死後を弔って貰えないので、こんな姿になっているのです。これでは浮かばれないので、恨みを言おうと思っていたのです。どうかこのことを廉子さまに申し上げてください」
と叫びました。伊賀局は、
「世の中が乱れに乱れていて、廉子さまもお忘れになっているのでしょう。わたくしが申し上げて、弔って差し上げましょう。その時、どのような御経を読めばよいのでしょうか」
と聞くと、化け物は、
「法華経を読んでください」
と言って、間もなく姿を消してしまった。

伊賀局は、早速廉子の御前に参上し報告した。
廉子は、戦いに倒れていっ者の後生を弔うことを放置していたことを深く謝罪し、早速、翌日、吉水の法師に頼み、三・七日の間法華経を読んで弔った。
その後、藤原基遠も成仏出来たようで、化け物も出なくなったという。

もう一つの逸話。
先の逸話から半年ばかり後の、正平三年(1348)正月、南朝の吉野の行宮は、北朝方の高師直軍に攻め立てられ、後村上天皇はさらに奥地の賀名生(アノオ)に行宮を移すことになり吉野を脱出した。
天皇の母・廉子も同行しており、伊賀局も付き従っていた。供する者はごく僅かで、雪深い道なき道をさらに奥地への脱出行であった。
やがて一行は、吉野川の支流に行きあたった。賀名生に向かうためには何としてもこの川を渡らなくてはならないのだが、激しい流れに架けられていた橋は朽ちて崩れ落ち、とても渡れる状態でなかった。
一行の皆が、僅かな武者までが途方に暮れたが、その時伊賀局は、近くの大木の太い枝を次々と折り取って、崩れている橋にかけてゆき、無事一行は川を渡れることが出来たのである。
人々は、さすがに篠塚重宏の娘だと感心し称えたという。

なお、この物語は、伝承により若干内容が異なっている。
もっとも勇ましいものは、伊賀局が「近くに生えていた大木を根こそぎ抜いて川に渡した」と伝えている。伊賀局は怪力の持ち主であったようだが、ここまでくると少々大袈裟に過ぎる感がある。

さて、伊賀局という女性は、このような逸話として伝えられているが、残されている情報は多くない。
まず、生年であるが、伝えられている資料がなく、周辺の人物との関係から推定するも、なかなか決めかねる。
没年は、元中元年(1384)十月とされていて、これは正しいらしい。そうすると、怪力で橋を架けた時から、三十六年後までは生きていたことになる。そして、まさか五つや六つで大きな枝を折り取ったとも思えないので、この頃には十五歳以上であったと思われる。
また、時期は不明であるが、夫となる楠木正儀(マサノリ・楠木正成の三男)の生年は西暦1330年頃とされているので、これらを勘案すると、まったくの推定であるが、橋を架けた逸話の頃が十五歳から二十歳頃と思われるのである。

何故それほど生年にこだわるのかといえば、伊賀局という女性の生涯を考える時、その生年、そしてその誕生の地によって、その様子がずいぶん違うものになって見えてくるように思えてならないのである。


     * * * 

伊賀局の父は、篠塚重広という上野国の豪族である。
その血統は桓武平氏に遡るともいわれているが、元久二年(1205)、北条氏との戦いで畠山重忠・重秀父子が戦死すると、家来の宮野某は重秀の子とその母を連れて逃れ、母の実家である桶川の足立遠元を頼った。その後、同族の上野国守護である安達景盛に招かれて佐貫庄篠塚に移り住み、元服後は篠塚重興と称し篠塚領主となった。
篠塚重広は、その四代の孫である。

重広が歴史上に登場するようになるきっかけは、新田義貞の与力として従軍したことからである。
新田義貞は、当初は幕府方として、元弘三年(1333)一月には、楠木正成討伐軍の一員として河内に展開しているが、重広も従軍していたようである。この時義貞は、すでに朝廷方と何らかの連絡を取っていたと思われ、ほとんど戦うことなく、関東に引き上げている。
そして、五月初旬、今度は朝廷方として鎌倉攻めの旗揚げをする。
最初は百五十騎だったと伝えられているが、鎌倉に到着する頃には、足利尊氏嫡男の幼い義詮が加わったこともあって軍勢は膨らみ、二十数万騎になったという。
重広は、旗揚げに際して出陣の誘いがあり、最初の百五十騎の中に入っていたと思われる。

新田軍は五月下旬には鎌倉を陥落させる。
篠塚重広も、その功により後醍醐天皇から「伊賀守」を賜っている。この頃から後には、自称「何々の守」が大勢現れるが、重広の場合は、守護職を得たわけではないが、自称とは質が違う。
伊賀局の名前も、父の伊賀守に由来している。

重広は、この後も新田義貞に従って転戦する。義貞が南朝方に属したため、重広も南朝方の有力武将として名を上げていく。
身の丈六尺五寸(約197cm)というから、当時では雲突くほどの大男ということになる。大刀と長い金棒を振り回して敵陣に突入していく南朝の豪傑として名を上げてゆく。その活躍ぶりは、太平記に再三登場していて、楠木正成には劣るとしても相当の著名人物なのである。

新田義貞が敗死した後も、主として義貞の弟である脇屋義助に従って各地を転戦、軍事的に圧倒的に不利な南朝を支え続けた。
そして、興国三年(1342)四月、脇屋義助を大将とした五百騎の軍団に加わって四国に渡った。伊予方面の南朝勢力立て直しのための作戦であったが、不運にも大将の脇屋義助が急死するなど思いにまかせず、北朝方の大軍に攻め立てられ敗れた。

重広最後の戦いとなった合戦は、大館氏明が守る世田城の援軍として峰続きの笠松城に入っていたが、北朝方細川頼春の大軍に攻め立てられ、四十余日の攻防の末世田城は落ちた。
その勢いをかって北朝軍は笠松城に攻めかかった。小城である笠松城を死守することなどとてもできず、城を枕に討死するよりは敵陣に打って出ることを選んだ重広は、群がる敵陣の中に躍り出た。
見上げるほどの長身で、「我こそは・・・」と大音声で名乗りながら長大な金棒を振り回しながら進むと、敵兵は後ずさりしして道をあけたという。

重広は敵陣を突破して海に至り、小舟を雇って沖の島へ渡った。
この島の名前については諸説があるが、島々を転々としていたらしい。
その後については正確な動向を確定しづらい。程なく瀬戸内の島で没したともいわれ、島を脱出して故郷近くに戻り、三年後に没したともいわれている。
重広の足跡を多く伝えている大信寺には、暦応三年(1340)に没したとする資料が残されているが、史実とは食い違いがある。重広が島を脱出して故郷近くに身を隠していたとすれば、その辺りが北朝の勢力下であったことを考えると、故意にそのような資料が残された可能性もあり、むしろ故郷で数年間潜伏していた証拠のような気がする。

父・重広が転戦を続けていた頃、さらに行方が分からないようになった後、伊賀局はどのように過ごしていたのだろうか。
その前に、伊賀局が阿野廉子の女房として仕え始めたのがいつのことかということである。さらに、その前に、どこで生まれ、どういうきっかけで宮廷勤めをするようになったのか、考えてみたい。

伊賀局は、南朝屈指の武士である篠塚重広の娘としてそれなりの評価を受けていたと思われるが、当時は武士の宮廷内の地位は極めて低かった。当然上臈女房ということはあり得ない。女房というより女官程度の立場であったのかもしれない。
父・重広は元弘三年(1333)年に新田義貞に従って各地を転戦しているが、その二年前にも京都にいたらしい。つまり、伊賀局の誕生がこの頃から後のことであれば、京都という可能性があるということになり、それ以前であれば、父の故郷の篠塚城の可能性が高い。
京都で生まれたのであれば、母親なりその関係者などによって阿野廉氏との繋がりが出来た可能性はある。
故郷の上野国で誕生していたとすれば、幼い頃に京都に移ったことになり、その事情を推定するのが難しい。
いずれとも推定しがたいが、武士の娘が宮仕えをするのはそれほど容易いことではなかったと考えられる。

やがて、伊賀局は楠木正儀の妻となった。正儀は南朝の有力武将である楠木正成の三男である。
正儀は、父が兵庫・湊川の合戦で自刃し、正平三年(1348)に四條畷の戦いで正行・正時の二人の兄が戦死した後、家督を継いだ。
正儀も父や兄と同様に南朝有数の武将であるが、どちらかといえば、猛将というより知将という性質の武将であった。
正儀は苦戦を強いられることの多い南朝武将として転戦し、戦いの悲惨さは身にしみていた。正儀は講和派として後村上天皇の意を受けて和平交渉にあたったりしていたが、このため主戦派からは疑惑の目で見られることも多かった。
このため、一時は北朝方に身を置いたり再び南朝に戻ったりと難しい立場に置かれ続けていたようである。
正儀の没年は、元中六年(1389)ともその二年後ともいわれているが、南朝軍の武将として戦死したらしい。

伊賀局は、正儀より五年程前の、元中元年(1384)十一月に没している。
残念ながら、二人の結婚生活について伝えられている話はないが、知将である正儀と怪力とされる伊賀局の夫婦生活は、きっと微笑ましく仲の良いもので、厳しい南朝の中で奔走を続ける夫を支え続けたに違いない。
京都で生まれたのか篠塚城で生まれたのかはともかく、山深い朝廷や楠木家にすがすがしい息吹を吹き込んだ女性であったと思うのである。

こんな伝説もある。
一休宗純という歴史上の大人物がいる。
大人の一休禅師という人物については好き嫌いが分かれるかもしれないが、子供の頃を描いた一休さんを嫌いな人は少ないだろう。
この一休宗純が、後小松天皇の落胤であるらしいことは古くから伝えられていて、その可能性は高いらしい。そして、その母親については諸説があるが、このような話も伝えられている。

「南朝の高官の血筋で、後小松天皇の寵愛を受けていたが、その命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、その後一休を生んだ」
「正儀の三女が後小松天皇の官女となり『仔細ありて』退官した後に一休を生んだ。あるいは、その官女は正儀の孫娘であるとも」
など、楠木正儀の血筋であることも捨てきれないのである。
ただ、その官女の母なり祖母なりが伊賀局であったのかどうかについては、伝えられていないようだ。まことに、まことに残念なのである。

                                      ( 完 )


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