雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

八十の手習い ・ 小さな小さな物語 ( 488 )

2013-08-17 10:38:26 | 小さな小さな物語 第九部
ある本で、「八十の手習い」という言葉を見つけました。
いわゆる「ことわざ」の類の言葉ですが、実は、私はこの言葉知らなかったのです。
「六十の手習い」という言い方もありますが、私はこれが正しいもので、例えば「四十の手習い」などといったようにいろいろに応用されているのだと考えていました。その中にも、「八十の手習い」というものは、私の思考の中にはなかったのです。

例によって、広辞苑のお世話になりました。
「八十の手習い」については、「年老いてから字を習うこと。晩学のたとえ。六十の手習い」と説明されています。
「六十の手習い」の項目には、「六十歳になって初めて習字を始める意で、晩学のたとえ」とあります。
この二つを読み比べてみますと、「六十の手習い」の方が本命のようにも思えるのですが、広辞苑には、そのことについては触れておりません。

私がたまたま見かけた本には、「八十の手習い」の方が本家のような書き方をしていました。まあ、向きになって詮索する程の事でもないのですが、「八十の手習い」という言葉は江戸時代には使われていたそうです。
長寿社会といわれる現代ですが、男性の平均寿命は八十歳に僅かに届きません。女性の方はゆうゆう超えていますので、「八十の手習い」という言葉は女性に意味のある言葉でしょうが、男性の場合はそこに辿り着くまでが大変です。
しかも、江戸時代といえば、人生五十年といった時代だったと思うのです。おそらく平均寿命は五十歳に達していないと思うのですが、乳幼児や若くして亡くなる人が多かったためもあり、長命な人も結構いたのかも知れません。
それにしても、「八十の手習い」という言葉を残した江戸時代の人々は凄いと思います。

さて、現代に生きる私たち、「八十の手習い」を実践するだけの心意気はございますでしょうか。
「人間死ぬまで勉強だ」などといった殊勝な言葉も聞きますが、実際に実行するとなれば、なかなかそうもいきません。
私は図書館を利用させてもらうことが多いのですが、時々痛切に感じることがあります。それは、歴史とか地理とかといった知識の大半は十代の頃に身に付けたものが主流で、いまだにその知識をベースとしたものから越えることがなかなかできないということです。図書館で選ぶ書籍も、何かを調べる場合は別ですが、ほとんどが自分が持っている知識の範囲内のもので、これではとても「手習い」にはならないと思うのです。
江戸時代の人々が残した「八十の手習い」を現代に置き換えれば、「百歳の手習い」ぐらいに相当するのではないでしょうか。
そうだとすれば、「『手習い』を始めるのはまだまだ先で良いので、今はもっとのんびりと行きますか」とも思うのですが、この考え、あまり良くないのでしょうね。

( 2013.03.02 )

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