スポーツに関わる話題が豊富です。
例年この時期は、プロ野球のキャンプ便りがスポーツ紙やテレビのスポーツ番組の主役になるのですが、今年は少し様子が違うようです。それも、社会面や、政治問題としてまで拡大しているのです。
わが国では、体罰問題が大きな話題になっていますが、世界的に見れば、オリンピックの競技種目の問題や、有名選手の事件らしい報道も伝わってきています。
それぞれの問題は、それぞれに理由があり、然るべき対応がなされていくと思うのですが、わが国について言えば、スポーツの位置付けについて国民全体で考え直す必要があるように思うのです。
大阪の某高校のスポーツ顧問の教師や柔道の代表監督に端を発して、あちらこちらから似たような事案が報告されています。それでもまだ、氷山の一角に過ぎないことでしょう。
この二件の指導者について言えば、こんなのを体罰だとか愛の鞭などといった言葉で表現するのはもってのほかです。他にも刑事事件になった指導者もいますが、そのいずれも有罪かどうかはともかく、完全な犯罪行為です。
スポーツというものは、ヨーロッパなどでは楽しむものとしてスタートしたそうです。それに対してわが国では、教育の一環としてスタートしたようなので、世界基準でいえば、歪んだスポーツの在り方や指導の在り方がまかり通っているようなのです。この機会に、徹底した実態調査をし、いくら力が強くても、いくら早く走れるとしても、いくらボールをうまく操れるとしても、人格に欠けた人物をスポーツの指導者にさせてはなりません。いわんや、学校教育の場でそのような人物がクラブを指導していることを考えれば、怖ろしくなってしまいます。
少なくとも、未成年ばかりの高校以下のクラブ活動からは、そのような指導者を早急に追放しなくてはいけません。そのため指導者が少なくなり、クラブ活動に支障があるのなら、クラブ活動なんてやめてしまえばよろしい。これまで、ひどい指導者のもとで運営されたクラブが解放されるだけで、青少年の教育上、相当のプラスになるはずです。
この際私たちは、スポーツを見直す必要があるのではないのでしょうか。
甲子園の高校野球に代表されるように、若者の懸命な姿は多くの人に感動を与えてくれます。しかし、その陰に、もしトラやライオンでも調教するような指導をしている学校が一校でもあるとすれば、全く興ざめになってしまいます。
大体、私たちはスポーツに優れた人をあまりにも神聖視しているように思うのです。
優れたスポーツ選手が称えられることに何の異論もありませんが、スポーツは、金メダルを手にしたり巨万の富を得ている人たちだけにあるものではないのです。
年齢や運動能力などに限定されないあらゆる層の誰でもが、もっともっと気楽に様々なスポーツを楽しめるようにすることこそが、金メダルの数を数えるより遥かに重要なはずです。
今こそが、「スポーツは楽しいものである」という原点に戻る絶好のチャンスだと思うのです。
( 2013.02.18 )
例年この時期は、プロ野球のキャンプ便りがスポーツ紙やテレビのスポーツ番組の主役になるのですが、今年は少し様子が違うようです。それも、社会面や、政治問題としてまで拡大しているのです。
わが国では、体罰問題が大きな話題になっていますが、世界的に見れば、オリンピックの競技種目の問題や、有名選手の事件らしい報道も伝わってきています。
それぞれの問題は、それぞれに理由があり、然るべき対応がなされていくと思うのですが、わが国について言えば、スポーツの位置付けについて国民全体で考え直す必要があるように思うのです。
大阪の某高校のスポーツ顧問の教師や柔道の代表監督に端を発して、あちらこちらから似たような事案が報告されています。それでもまだ、氷山の一角に過ぎないことでしょう。
この二件の指導者について言えば、こんなのを体罰だとか愛の鞭などといった言葉で表現するのはもってのほかです。他にも刑事事件になった指導者もいますが、そのいずれも有罪かどうかはともかく、完全な犯罪行為です。
スポーツというものは、ヨーロッパなどでは楽しむものとしてスタートしたそうです。それに対してわが国では、教育の一環としてスタートしたようなので、世界基準でいえば、歪んだスポーツの在り方や指導の在り方がまかり通っているようなのです。この機会に、徹底した実態調査をし、いくら力が強くても、いくら早く走れるとしても、いくらボールをうまく操れるとしても、人格に欠けた人物をスポーツの指導者にさせてはなりません。いわんや、学校教育の場でそのような人物がクラブを指導していることを考えれば、怖ろしくなってしまいます。
少なくとも、未成年ばかりの高校以下のクラブ活動からは、そのような指導者を早急に追放しなくてはいけません。そのため指導者が少なくなり、クラブ活動に支障があるのなら、クラブ活動なんてやめてしまえばよろしい。これまで、ひどい指導者のもとで運営されたクラブが解放されるだけで、青少年の教育上、相当のプラスになるはずです。
この際私たちは、スポーツを見直す必要があるのではないのでしょうか。
甲子園の高校野球に代表されるように、若者の懸命な姿は多くの人に感動を与えてくれます。しかし、その陰に、もしトラやライオンでも調教するような指導をしている学校が一校でもあるとすれば、全く興ざめになってしまいます。
大体、私たちはスポーツに優れた人をあまりにも神聖視しているように思うのです。
優れたスポーツ選手が称えられることに何の異論もありませんが、スポーツは、金メダルを手にしたり巨万の富を得ている人たちだけにあるものではないのです。
年齢や運動能力などに限定されないあらゆる層の誰でもが、もっともっと気楽に様々なスポーツを楽しめるようにすることこそが、金メダルの数を数えるより遥かに重要なはずです。
今こそが、「スポーツは楽しいものである」という原点に戻る絶好のチャンスだと思うのです。
( 2013.02.18 )
相手が服従の態度を示さないところが、気に入らないのであろう。
当人は、やけっぱちになっている。
日本語には、階称 (言葉づかい) というものがある。
上と見るか、下と見るかの判断を迫る日本語を使えば、モノの上下に関する判断は常について回る。
この世俗的な上下感が日本人の判断を狂わせている。
下とみられたものは、上からの暴力に抗することもむずかしい。
序列差法の一環と考えられていて、無防備状態である。
上の者の声は、天から聞こえてくると感じられるからである。
「下におれ、下におれ」の掛け声は、昔から続いた為政者の要求である。
理屈はない。ただ、指導者の要求のみがある。
世俗の上下制度が唯一の頼りとなっている。
暴力は、「がんばって」の掛け声のようなものか。
序列に基づく精神力 (意気込み・気力) で、大東亜戦争に勝てるのか。
努力の空回りに気が付く時が来た。気力ではなく、知力 (intelligence) で負けた。
我々は、頭を鍛えなくてはならない。