雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  奥山深く

2014-01-27 08:00:20 | 運命紀行
          運命紀行
               奥山深く

 『 桜花散らば散らなむ散らずとて ふるさと人の来ても見なくに 』

これは、古今和歌集にある惟喬(コレタカ)親王の和歌である。
歌意は、「桜の花よ、散るのならさっさと散ってしまえばよい。散らないとしても、ふるさとの人が見に来てくれるわけでもないのだから」といったものであろう。
この和歌は、隠棲後の惟喬親王が親交のあった僧正遍照に送ったものである。
僧正遍照は、『 天津風雲のかよひぢ吹きとじよ 乙女の姿しばしとどめむ 』という小倉百人一首の歌でも知られているが、桓武天皇の孫にあたる当時一流の歌人である。
なお、歌の中にある「ふるさと」は、隠棲する前の都の生活を指しており、「ふるさと人」は僧正遍照のことを指しているのであろう。

それにしてもこの歌は、桜の花に託しているとはいえ、何とも厭世的で、投げやりとも思われる生活ぶりが偲ばれる。
新古今和歌集には、次のような歌も残されている。

 『 夢かともなにか思はむ憂き世をば そむかざりけむ程ぞくやしき 』

歌意は、「今の生活を夢であればなどと、どうして思いますか。憂き世を捨てきれなかった頃のことこそが悔やまれるのですよ」といったところか。
こちらは、在原業平が訪ねてきたときに詠んだ歌らしい。業平も、惟喬親王と従兄にあたる皇族の一員である。
こちらもやはり、やりきれないような虚しさが伝わってくる作品である。もちろん、和歌が作者の生涯を映し出しているものとは限らないし、意識的に悲劇を描き出しているものも少なくない。
それにしても、天皇家に生まれながら、このような厭世的ともいえる歌を残した人物の生涯を見てみたいと思う。

惟喬親王は、承和十一年(844)、第五十五代文徳天皇の第一皇子として誕生した。母は紀静子である。
平安京が開かれて五十年ばかりを経た頃で、朝廷内で藤原氏の台頭がめざましい時代であった。
嘉祥三年(850)、藤原明子に第四皇子である惟仁皇子が誕生すると、惟喬を取り巻く状況は激変した。惟仁皇子が誕生まもなく立太子したからである。
藤原明子の父は右大臣藤原良房で、朝廷内で絶大な勢力を有していた。良房は、この後、皇族以外で初めて摂政に就いた人物で、藤原氏の中でも北家全盛の礎を築いた人物でもある。
一方、惟喬の母の実家紀氏には、藤原氏に対抗できるような人材も政権基盤も有していなかったのである。

文徳天皇は、惟仁皇子を立太子させ将来の皇位を約束したことになるが、何分まだ幼児のことであり、惟仁皇子が成長するまでの繋ぎの形で惟喬皇子を天皇に就けるよう画策したようであるが、藤原良房の反対を危惧した側近の源信(ミナモトノマコト・嵯峨天皇の七男)らの諌言により断念したらしい。
天安元年(857)、十四歳の惟喬皇子は文徳のもとで元服し、四品に叙せられた。翌年には太宰権帥に任ぜられた。任地に赴くようなことはなかったが、皇位争いから完全に除外されたという宣告でもあった。
そしてその年、文徳天皇は崩御、九歳の惟仁皇子が即位した。清和天皇である。

惟喬親王は、その後、太宰帥、弾正尹、常陸太守、上野太守を歴任するも、貞観十四年(872)に病を理由に出家し、近江国滋賀郡小野に隠棲した。二十九歳の時である。
その後も、山崎、水無瀬などにも閑居し、在原業平、紀有常らと交流していたらしいが、朝廷に復帰することはなかった。
そして、寛平九年(897)に閑居先で崩御した。享年五十四歳であった。
清和天皇すでに亡く、第五十九代宇多天皇の御代となっていた。


      ☆   ☆   ☆

惟喬親王の略歴を見ると、不運ではあるが、激しい皇位争いが絶えなかった奈良・平安時代の皇族としては、よくある生涯ともいえる。
しかし、今少し詳しく見ると、そして、若干の想像が許されるならば、違う光景が見えてくる。

惟喬親王が朝廷を去り出家したのは二十九歳の時である。病気のためとあるが、隠棲先が近江国の小野の里ということであるが、重病であればとても移れる距離ではなく、むしろ、時の政権から逃れるためであった可能性が高い。
小野に移ったのちも、さらに山奥である神崎郡永源寺のさらに奥地である小椋谷に移ったらしい。おそらく、追手から逃れるためであったと想像される。
伝承によれば、この地で里人たちに轆轤(ロクロ)を教えたという。惟喬親王にそのような技術があるとは思えないが、付き従った側近たちの中には帰化系の人や技術者なども含まれていたのかもしれない。

一方で、惟喬親王には最低二人の子供はいたとされる。夫人の名前は伝わっていないが、子供の一人は兼覧王(カネミオウ)といい、生年が貞観八年(866)という説があり、これが正しいとすれば、惟喬親王が出家する以前のことなので、その後父と行動を共にしたのか、あるいは誰かに育てられたのかもしれない。また、父親は別だとする説もあるらしい。
この兼覧王は、仁和二年(886)に二世王(孫王)として従四位下に叙されている。その後官職には恵まれなかったようであるが、宇多天皇の親政が始まると侍従として召され、その後昇進し、宮内卿まで上っている。この経歴を見ると、惟喬親王の存在が影響しているようにも思われ、やはり惟喬親王の実子のように思われる。
もう一人は女の子で、三国町(ミクニマチ)という名前だったらしいが詳しいことはわからない。

惟喬親王が隠棲生活に入る前は、御所に近い大炊御門烏丸(オオイミカドカラスマ)の広大な屋敷に住んでいた。この屋敷は後にどういう経緯かわからないが藤原実頼らに伝承され、惟喬親王の御所であったことから「小野の宮」と呼ばれたという。この小野というのは、隠棲地から来たものと考えられるので、隠棲後もこの屋敷に影響を与えていたのかもしれない。
そうだとすれば、子供である兼覧王や三国町はこの屋敷に住み続けていて、宇多天皇が即位した仁和三年(887)以後は、惟喬親王も出入りしていたのかもしれない。

惟喬親王自身は、近江国の奥山深くに身を隠した後も山城国の数か所に閑居していたようだ。
惟喬親王が逃れ住んだとされる地をはじめ、木地師や轆轤師と呼ばれる一族には、惟喬親王を祖とする集団が少なくなく、また、中世、小野巫女と呼ばれた歩き巫女たちが小野神という神に対する信仰を全国に流布させていったが、この小野神と「小野の宮」が混同されるようになったらしい。
しかし、もしかすると、同じ根から出たものかもしれないような気もするのである。

『 白雲のたえずたなびく峯にだに すめばすみぬる世にこそありけれ 』

この和歌も古今集に収録されている惟喬親王の作とされる歌である。
現世を超越したような、仙人の生活を髣髴させるような歌であるが、「貫之集」にはほとんど同じような歌があり、「小町集」にも収録されているという。さらには、「古今和歌六帖」には作者不明となっている。

これは、全く個人的な感想であるが、「小野の宮」とも呼ばれる惟喬親王といい、小野小町といい、小野篁といい、小野という名前には不思議が似合うらしい。

                                       ( 完 )

  

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自然に親しむ ・ 心の花園 ... | トップ | 運命紀行  一族の切り札 »

コメントを投稿

運命紀行」カテゴリの最新記事