『 彰子誕生 ・ 望月の宴 ( 30 ) 』
こうしているうちに、左京大夫道長殿の北の方(倫子)が産気づき、たいそう苦しそうにされましたので、御読経、御修法の僧たちはもちろんのこと、験力があることで知られている僧たちを召し集められて、大騒ぎでございます。
大殿(兼家)からも后宮(キサイノミヤ・一条天皇の母、詮子)からも、どのようなご様子かと、ひっきりなしにお尋ねの使者が途切れることがありません。
このように、大変な騒ぎでございましたが、まことに無事平穏に、特にひどく苦しまれることもなく、みごとな女君がお生まれになったのでございます。そして、この女君こそ、のちに中宮彰子として道長殿の全盛期を支え、平安王朝文化の一翼を担うことになる姫君なのでございます。
このご一家は、最初に生まれる女君を、必ず将来の后にとの大望を抱いておられましたので、大殿からも何度もお喜びの声が伝えられておりました。まことに結構なご夫婦でございます。
もちろん、大殿には、すでに御長男の道隆殿に定子・原子という二人の立派な姫君がいらっしゃるのですが、道長殿に対する期待の大きさが伝わって参ります。
七日の間の様々な御事は、とても書き綴ることなどできないほどでございます。
三日の夜は本家(妻の実家のことで源雅信が主催。)、五日の夜は摂政殿(兼家)より、七日の夜は后宮よりと、それはそれは立派な御産養(ウブヤシナイ)がございました。
ますます三位殿(道長)は御心を他に向けることがなく、夫婦仲は水が漏れることなどないような睦まじさで過ごしていた。
ところで、故村上先帝のご兄弟の十五の宮(盛明親王)の姫君(明子)で、たいそう大切に養育なさっている方は、源師(ゲンノソチ・源高明)と申すお方の御末娘の姫君を養女として迎えられたお方である。
その姫君を后宮(詮子)のもとにお迎えして、宮の御方と称して特別扱いのもてなしをされていたが、どの殿方もが、何とかして我が妻にと思い申されていたが、中でも、大納言殿(道隆)は、例の好色な御心から、度を超すほど熱心に懸想されるので、宮の御前(詮子)は、絶対にあってはならないことだと止められていたが、この左京大夫殿(道長)は、姫君付きの女房方を味方につけて、前世の因縁であったのか、姫君と睦まじい関係になってしまわれたが、后宮も、「この君はそう容易く女に物など言わぬ人なので、信頼できるでしょう」と、二人の仲をお認めになり、しかるべきもてなしをなさったので、左京大夫殿は、ご自身もこの姫君をお慕い申し上げておられたが、后宮のご配慮も畏れ多く、この姫君を大切にしてお通いになられた。
土御門の姫君(倫子)は、夫道長と宮の御方(明子)との結婚が覆しようのない事と認識されながらも、もとのままであればと辛いお気持ちであったが、この姫君は温和な性質をお持ちで、おっとりと若々しく振る舞っていて、取り立てて何事かが起こったとは思っていらっしゃらないように見える。
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます