雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

大千代君と小千代君 ・ 望月の宴 ( 39 )

2024-03-13 20:29:29 | 望月の宴 ①

        『 大千代君と小千代君 ・ 望月の宴 ( 39 ) 』


摂政殿(藤原道隆)の弟君のうち一番上の君(道綱)は、宰相(参議の唐名)でいらっしゃる。粟田殿(道兼)は、内大臣におなりになった。中宮大夫(道長)は大納言におなりになった。
大千代君(道頼・・道隆の庶長子であるが兼家の養子になっている。)は、中納言におなりになった。小千代君(伊周(コレチカ)・道隆の三男であるが嫡男扱い。)は三位中将でいらっしゃったが、この方も中納言になられた。
いつものことながら、そうなるはずの人ばかりが昇進なさるようである。

新中納言(道頼)の北の方(藤原永瀬の娘)は、山井(ヤマノイ)という所にお住まいなので、山井の中納言と申し上げる。
小千代君は、あの大納言殿(源重光)の姫君である北の方が、たいそう可愛らしい若君(道雅)をお生みになったので、祖母北の方(重光の北の方)や摂政殿(道隆)などは、得がたい宝物として大切に養育なさる。松君と申すとのことである。
摂政殿がお屋敷にお迎えしては、乳母にも若君にも様々な御贈物をされてお帰しなさる。女房方も、いつしかこの若君の成長を待ち遠しく思っていることだろう。


こうして月日は流れ、正暦三年(992)になりました。
何とも哀れなことが多く、はかない世の中でございます。
二月には、故円融院の御一周忌が催されました。これにより、世間は喪服の薄鈍色(ウスニビイロ)の御衣装も終りとなり、平常の華やかな服装が戻って参りましたが、それだけで、何もかもが引き立って見えるものでございます。
摂政殿には姫君方が大勢いらっしゃいますが、まだ幼い方々なのが、摂政殿にはもどかしいことでございましょう。

ところで、中宮大夫であられる道長殿は、土御門の北の方(倫子)様も、宮の御方(明子)様も、昨年からご懐妊のご様子で、まことにおめでたくも賑々しいことでございます。
倫子様のもとには、左大臣殿(倫子の父源雅信)が、いかにいかにと安産のご祈祷をなさっておられます。
明子様には、故円融院の后であられた詮子様がお越しになられ、然るべきご祈祷を指図なさっておられるとか。何と申しましても、詮子様は、今上天皇(一条天皇)の生母であられますし、明子様を養女になさっておられますから、母代わりということなのでございましょうか。

六月十六日には、一条の太政大臣藤原為光殿がお亡くなりになりました。御諡(オクリナ)は恒徳公と申されます。
御娘の花山院の女御忯子様が亡くなられてからは、法師よりもご熱心に勤行三昧をお続けでございました。法住寺をまことに立派に造立なさって、明け暮れその寺に籠もっておられたとのことでございます。
為光殿の御嫡男(誠信)は、東宮権大夫でいらっしゃいます。もうお一人(斉信)は、中将でございます。
その中将殿が、この四月の賀茂祭の使いにお立ちになられましたので、為光殿はあれこれと立派に支度のうえ御役につけさせられ、ご自分は、粗末な御車に乗って行列をご覧になり、使いの君が通り過ぎられますと、他のものを見ようともしないでお帰りになってしまわれましたが、世間の人々は、その事を思い出して痛ましく噂されているのでございます。

為光殿の姫君は、なお、忯子様の同腹のご姉妹として三人いらっしゃいます。その三の御方を寝殿の御方と申し上げて、特に大切になさっていらっしゃいました。
四の御方と五の御方もいらっしゃますが、故忯子様と寝殿の御方とだけを格別に大切になさっていたそうでございます。為光殿は、「女子は器量が大切だ」などと仰せられていたそうですので、四の御方、五の御方は如何なのかとの噂もございます。
ただ、三の御方と四の御方をめぐりましては、花山院と伊周(道隆の子)殿との間で確執があり、大事を引き起こしております。また、四の御方は、後年、道長殿とご縁のある御方でございます。

為光殿の御法事は法住寺で行われました。
為光殿の一条殿は、並大抵のお邸ではなく、堂々とした大邸宅でございますから、太政大臣であられた為光殿が亡くなりますと、ふつうのお方で住みづらく、次第に荒廃していくのがいたわしいことでございます。
この御邸とあらゆる御財産は、三の御方が御相続なさったそうでございます。

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